エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

震災のトラウマを引きずり続ける私の生活【前編】

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今日は大きめの地震が度々ありましたね。

私は横浜市に住んでいるので、夜中と明け方に2回揺れで起こされました。ていうか、最近夜中に起きててもわりと頻繁に地震が起こっているような気がするのですが…どうでしょう?

ということで、今日は今さらながらですが、地震にまつわる話を書きたいと思います。

阪神淡路大震災の記憶

阪神淡路大震災が起こった日のことは今でも鮮明に覚えている。

私は中学1年生で、高校生の姉と同じ部屋で布団を並べて寝ていたところ、いきなり遠くの方から「ドドドドドドド…」という音(地鳴り)が近づいてくるので目が覚めた。

その音が地下から聞こえてきていて、そして瀬戸内海側から近づいてくるのも一瞬でわかった。例えるなら巨大なイモムシが地下を走っていくような感じだった。

音がどんどん近づいて来て最大になった時、家がガタガタというよりガンガンと一瞬大きく揺れて、そしてその音は日本海側へと遠ざかって行った。

思わず起きて、台所へ行ったらガラス戸の食器棚にあった小さな皿が棚の中で落ちて割れていたくらいだったので拍子抜けした記憶がある。

そして「神戸の方で地震が起きたらしい」ということがわかっているだけの状態で、もうその日はいつもどおり中学校に行った。

その後、午前中に学校で美術の授業を受けていたら、美術の先生から「神戸の方が大変なことになっているみたい」「先生たちがみんな神戸の方にいる親戚や知り合いにに電話をしているけど、全然繋がらないらしい」という話を聞かされたのを覚えている。

学校が終わって、家に帰ってテレビを見ると、テレビは全部神戸の街を映していて、自分が想像していた以上に神戸の街がぐちゃぐちゃになっていた。

私の実家は兵庫県の某ド田舎で、神戸からは少し距離があったが、兵庫の中でも瀬戸内海寄りなので、神戸はそんなに遠い場所ではなかった。神戸方面には親戚はいなかったが、兄が大学1年生で、実家から神戸の大学に通っていたので、兄は大学にかなり長い間行けなかった。たしか同級生が亡くなったりもしていたと思う。

私は中学生だったので、神戸方面にまで遊びに行くことはまだなかったが、高校生になって神戸方面に遊びに行くようになってからも、まだ仮設住宅が残っている場所があったのを覚えている。

当日の揺れもそうだが、私は前日の夕方に短い揺れがあったことをすごく覚えていた。そしてその経験から、私は少しの揺れでもその後に大きな揺れが来るのではないかという恐怖を覚えるようになっていた。

東日本大震災の前日と本震

その後大人になり、東日本大震災が起こった頃はまだ私も結婚して半年くらいで子どももおらず、私は代々木寄りの新宿で、夫(仮)は渋谷で働いていた。

3月11日の2日前にも大きめの地震があって、さらにその前にクジラが大量に海岸に打ち上げられた的な話を聞いていたので、私は何だか嫌な予感がして、3月9日だったか10日だったかは忘れたが、地震が起きる前の仕事帰りにペットボトルの水を買って帰って枕元に置いていた。

地震当日は、夫(仮)と喧嘩していた。原因は前日だかに夫(仮)が飲みすぎて帰ってきたとか、もうすでに当時から酒がらみのことだったと記憶している。

それで、朝も口を聞くことなく喧嘩をした状態で会社に向かった。私が当時働いていたビルは12階建てとかで、私はたしか9階で働いていたと思う。

めちゃくちゃ暇で座っているだけでOKみたいな職場だったので、私は昼休みも終わり、自分のデスクでウトウトしていた。

すると、最初は小さな揺れだったのが、どんどん揺れが大きくなって、誰が指示するわけでもなく、そのフロアにいた数十人の人たちが一斉に自分のデスクの下に隠れた。

ビルの9階ということもあり、もはやデスクの下にいることに意味があるのかもわからないくらい揺れた。

「これが噂の首都直下型地震か。もう自分はここでこのまま死ぬんだな」と私は思った。

揺れはかなり長く感じたが、一度おさまった。そして皆が「ヤバい…」みたいな感じでとりあえず席に着こうとしていたら、また揺れが始まり、また皆デスクの下に隠れた。

その揺れがおさまったあと、上からの指示で、とりあえずデスクに待機になったが、その間に隣の席の女の子が「江戸さん、なんかヤバそうですよ」といってスマホを見せてきた。スマホの画面には家が流される様子が映っていた。

当時は津波で家が流されるというイメージ自体がそもそもできなかったので、まるで洪水で家が流されているのを見るような、その程度と言ったら不謹慎かもしれないが、いまいちその映像を見ても何がどうなっているのかピンとこなかった。

その間も余震はずっとあったので、とりあえず社員たちは近くの小学校に避難することになり、上の階の人から順番に階段を下りて近くの小学校まで避難をした。

一旦小学校の体育館に避難はしたものの、もうその日は会社に戻ることなく、たしか一部の社員の人を除いては解散になった気がする。

3月11日の夜から翌朝まで

私は隣の課の歳の近いNさんと避難先の体育館で「どうする?」と途方に暮れていた。
私は当時からすでに横浜市に住んでおり、Nさんもたしか埼玉だかどこか電車じゃないと無理なところから来ていて、2人とも電車がないと帰れない状態だった。

夫(仮)からメールが来て、夫(仮)の会社も各自解散になったということだったので、とりあえず小学校の場所を伝え、しばらくすると夫(仮)は渋谷から歩いて私とNさんのいる体育館まで来て、合流することができた。

喧嘩のことはムカついていたが、もうそれどころではなかったので普通にやり取りせざるを得なかった。

避難先の小学校には臨時の固定電話が用意されていて、並べば順番に利用できる状態だったので、私はとりあえず実家に電話をして状況を伝えた。

母と何を話したかは覚えていないが、父から「まだ大きいのが来るってテレビで言うてるで」と言われたのは覚えている。今思えば悪気はなかったのかもしれないが、無駄に不安を煽られたなと思うし、自分は同じことは絶対にやらないようにしようと思った。

そうこうしているうちに夕方になってきて、体育館の人から「ここはこの周辺に住んでいる人の避難場所になりますので、この地区に住んでいない人は他に行ってください」みたいなことを言われ、私と夫(仮)とNさんの3人はとりあえずその学校を出て、渋谷方面へと向かった。

渋谷方面に向かったのは、当時の自宅が東急東横線沿線にあり、終点(始発)が渋谷だったからだ。Nさんはどうだったかは忘れたが、とりあえず3人で渋谷方面に向かって歩いた。

道路は大渋滞。歩道は普段見ないほどの数のオフィスワーカーを中心とした老若男女が皆それぞれどこかを目指して四方八方に歩いていた。

遠くの方では港のタンカーみたいなところから黒煙が上がっているのも見え、それを見た時「これはただごとではない」と私は改めて思った。

あてどなく歩道を歩いている間にも余震は容赦なく起こり続けていて、私はとにかくどこに避難するとかよりも「ビルのガラスが落ちてきたらヤバい」とずっと思っていた。東京の街はビルだらけだ。大きなビルも小さなビルも、とにかくビルだらけなので、どこを歩いていても上からガラスの破片が降ってくる可能性がある。

私はその時になって初めて地震時におけるヘルメットの重要性を思い知った。

そして、どういう経緯でそうなったかはもはや忘れたが、薄暗くなってきたころに青学(青山学院大学)のキャンパスの前を通りかかったら、避難先のない人を受け入れてくれるということがわかり、私たち3人は翌日電車が動くことに期待して、一晩青学でお世話になることになった。

青学の避難場所は映画館のように前に向かって斜めに椅子が並んでいるところで、前方には大きなスクリーンがあって、そこには常にニュースが流されていた。私たちと同じような、おそらく帰宅困難者であろう色々な人たちが集まっていた。

水や毛布や避難用の食事みたいなのを貰えたような気がするが、常に「何かの拍子にここで死ぬかも」という恐怖がつきまとっていたので、食欲とか眠気もなかった気がする。一晩の間に何回緊急地震速報が鳴っただろうか。ずっと余震もあったし、その度にそこにいる皆が怯え、身体を丸めて身構えるような状態だったので、まともに眠ることもないまま朝を迎えた気がする。

そして朝になり、電車が動き出したと聞いたので、私と夫(仮)とNさんは別れ、私たちは自宅へと帰ったのだった。

自宅に大きな被害はなかったが、買い物に行ってみると、近所にある店という店からありとあらゆる食べ物がなくなっていた。(つづく)

(なんか今日全然こんな話を書くつもりはなかったのですが書いてしまいました…)