エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

OD(過量服薬)で自殺未遂した話

タイトルのとおり、2024年3月1日、OD(過量服薬)をして救急車で運ばれた。

今日はそのことについて書こうと思う。

きっかけ

私は下の子を産んだあたりから徐々に夫と不仲になり、情緒不安定になっていき、結果的に別居をするに至った。希死念慮(死にたい気持ち)が出始めたのは今から5~6年前くらいからだと思う。

夫との不仲により崩壊している家庭をどうにかすべく、友人に勧められて心理士のもとカウンセリングを受け始め、心理士の勧めで診療内科にも通うことになった。

夫とは現在別居をしており、そのことについては過去の記事に書いているのでここでは割愛する。とにかく私は心療内科でもらった精神安定剤や眠剤を服用しながら、心理士のもとに通い続け、2023年1月からは心理士の勧めで精神分析的心理療法という心理療法を受け始めた。

4年ほど心理士のところに通っていたのは、それだけ心理士とのカウンセリングや心理療法に効果を感じていたためである。ただ、抗うつ剤や眠剤など飲む薬も以前よりも増えており、全体的に見ると確実によい方向に向かっているとは言えなかったのかもしれない。その辺についても書き始めると長くなるので割愛する。

私は心理士のことを信頼しきっていた。だからこそ、毎週同じ曜日の同じ時間に50分間の心理療法を受け続けていた。途中「どういう意味だろう?」と疑問に思うこともありながらも、心理士のことを信頼しきっていたので、毎週心理療法に通っていた。

しかし2024年2月27日の心理療法の後半で、私は心理士の発言に大きな違和感を覚えた。というのも、私が「最近調子がいい」と言っているにもかかわらず、「今の強いあなたは壊れやすい」「本当はあなたは弱い」といったことを言われたためである。

私は心理療法の積み重ねのおかげで「自分は本当は強い人間だ」と気づけた気がしていたので、心理士に「この強さはこれまでの積み重ねではないのですか?」と初めて反論した。しかし、50分と決められている時間の45分くらいのときにその話になったため、納得いく返答は得られることなくその日の心理療法は終わってしまった。

当てつけ

心理士に対して初めて強い不信感を抱いた私は「今日の話が納得できなかったので、次の火曜日までにもう1日どこかで面談をしてくれませんか?」と心理士にメールを送ったが、心理士は頑なに追加の面談日を設けようとしなかった。むしろ「今のつらい気持ちで1週間過ごすことで江戸さんの心が成熟するでしょう」などという綺麗ごとのようなことを言われるだけだった。

心から信頼していた心理士の言葉によって混乱した私は、心理士に「じゃあ死にます」とメールを送った。そして、27日の夜にいつもより少しだけ多く眠剤を飲んで寝た。でも特に何も変わらなかった。そして28日の夜に手元に大量に余っていた薬をワインで流し込んで寝た。子どもの朝の支度は別居夫に朝早く来てもらうように頼んで寝た。

29日の日中に一度目が覚めて、トイレに行こうとしたら足がふらふらで立っていられなかった。トイレには這って行った。そしてまた寝た。夜になり、夫が声を掛けに来た時には私はもはや時間の感覚がなくなっており、ちぐはぐな会話をしていた。

そして、1日の昼頃目が覚めた私は、「もっと薬を飲んでやる」「もう死んでやる」と思って薬をさらに大量に赤ワインで流し込んだ。そしてその後すぐに別居夫に「もう薬飲んだ」とラインをした。

夫にわかりやすいように、飲んだ錠剤の空や、保険証、心療内科の受診票などをテーブルの上に置いて寝た。

私はもう意識が朦朧としていたので、そこから先のことはよく覚えていないが、夫がまず心療内科に連絡をし、「救急車を呼んでください」と言われたらしく、救急車が来た。

救急搬送

ぼんやりした意識の中、救急車の音が近づいてくるのがわかった。救急車の音が止まったと思ったら、しばらくして救急隊員だと思われる男性らにオレンジ色のハンモックのようなものに乗せられ、マンションの階段を下りていった。そしてそのハンモックのようなものからストレッチャーに私は乗せられ、救急車の中に入れられた。

名前や今日の日付を聞かれたような気がする。目にライトを当てられたりした気がする。しばらくして病院に搬送しますと言われた気がする。この間の記憶はほとんどない。

胃洗浄

気づいたら病院と思われる場所の処置室のような部屋に寝転んでいた。私は「ここは〇〇病院じゃないの?」「〇〇病院なら〇〇という友達の精神科医がいるんだけど」と言っていたと思う。友人の精神科医がいる大学病院に運ばれたかった、というか、彼に会いたかったのだと思う。

採血や血圧を図られ、「今から胃を洗浄します」と言われた。

「墨」と書かれたハチミツが入っているような大きな瓶を看護師さんが持ってきて、「すぐ固まるから」「服に着くととれなくなるから」などと言っていた。私はまずインフルとコロナの検査をされ、そのあと右の鼻の穴から管を通された、感覚的に食道くらいまでその管を入れられた。ぼうっとしていたので、そんなに痛いとか不快とかも思わなかった。

大きな注射器のようなものから炭と思わるものを何度かに分けて入れられた。「墨が薬を吸着する」といった説明を受けたように思う。炭には下剤が入っていると言われた。

救命救急室

私はストレッチャーに乗せられ、「救命救急室」という部屋に運ばれた。その頃にはもう意識はだいぶはっきりしていたと思う。

大人用のおむつを履かされ、ベッドに寝かされ、点滴を打たれた。

しばらくすると自分の意志とは別に大便が出るのがわかった。ナースコールを押し、看護師さんにおむつを交換してもらった。少し緑がかった黒い大便がついていた。その後も2回ほど大便をしてはおむつを替えてもらうという状態が続いた。

ただ、私はとてもトイレに行きたかった。オムツを履いているのでしようと思えば小便もできるのだが、どうしてもできなかった。そのため、少しふらつきながら、看護師さんの付き添いで歩いてトイレまで行った。

トイレでは小便ではなくまた大便が出た。看護師さんに申し訳なく思った。そしてそれから2時間ほど経ってからもう一度トイレについてきてもらい、そうしたらやっと小便ができた。大量の小便が出て私はとてもすっきりして安心した。

その後、水も何も口にできないまま、点滴を打たれたままベッドに横たわっていた。

私は睡眠薬を飲まないと寝られないので、案の定寝られなかった。看護師さんにいつも飲んでいる眠剤を飲ませてもらえないかと頼んだが、駄目だと言われた。

朝5時ごろになってようやく眠気が来たと思ったら7時頃に起こされた。つまりほとんど眠らないまま朝になった。

とにかく口の中がカラカラだったので朝ごはんを少し食べた。あまりおいしくなかったが、水分がありがたかった。

その後

その後、精神科医の先生と話をして、退院をしていいことになった。別居夫が迎えに来て、退院した。医療費は8万円近くした。バカなことをしてしまったと思ったが、8万円で済むのかという気持ちも少しあった。

その日は胃がなんとなく痛かったが、パンを食べたりラーメンを食べたりして過ごした。またお酒を飲んで眠剤を飲んで寝た。

医師から「4日にこの書類を持ってご主人とかかりつけの心療内科に行ってください」と言われたので、4日の午前中、かかりつけの診療内科に行って、主治医と話をした。

主治医はとてもよく話を聞いてくれて、同じこころを扱う者として申し訳ないことをしてしまった、といったようなことも言っていた。心理士の今回のやり方は失敗だったと思うと言ってくれた。

私はこの主治医のことを信用している。

ただ、まだ希死念慮がつきまとっており、「またODしてフラフラになりたい」という気持ちがあったため、落ち込みをなくすような作用のあるドグマチールという筋肉注射を打ってもらい、頓服ももらって帰った。

看護師さんからは「絶対に自分を大事にするんだよ」「悔しいけど、自分を傷つけたらもっとくやしい思いをすることになるからね」と言われた。私は泣いていた。

今思うこと

ODをして自殺未遂をした私だったが、正直「もう二度としない」とは言えない。なぜなら希死念慮がつきまとっているからだ。

私が死ぬと子どもたちや周りの人たちのメンタルがやられてしまうだけではなく、子どもたちの生活にも影響を与えてしまうだろう。そんなことは重々承知である。

しかし、そんなことがわかっていても希死念慮は常に私につきまとっているのである。

多分、私は「死」に対して一種の憧れのようなものを持っているのではないかと思う。

数日立てば忘れてしまう人もいるであろうが、「死」によって自分のことを考えてくれる人が増えて欲しいと思っているのかもしれない。

私は今、大きな問題を抱えているわけでもなければ、精神保健福祉士になりたいという夢もある、それでもやはり「死」が身近にあるのだ。

私はもう心理士のところに行くことはない。それは、自分の心が以前より強くなったという確信が持てていること、さまざまなことを客観視できるようになってきていることなどの理由からである。もちろん当該の心理士が信用できなくなったこともある。

とにかく私は、つきまとう希死念慮とともに一日一日をつなぐように生きていくのだろうと思う。そして、いつか本当の「死」を迎えた時、私は超新星となるのだろう。