エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

あぶくの家 ⑩夢と金

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前回の話↓

edoandlee.hatenablog.com

牢抜け

私が高校2年生になった春、兄は外資系のアパレル会社に就職し「仮住まい」を出た。そして姉はその数ヶ月後にオーストラリアへと旅立った。ワーキング・ホリデー制度を利用して幼い頃から憧れていた海外生活を送ることになったのだ。

兄は県内に暮らしていたため、たまに帰ってくることもあったと記憶しているが、インターネットもろくに普及していなかった当時、姉とはエアメールやごく稀に国際電話をする程度しかやりとりできなくなってしまった。

私は姉が小学生の頃から外国っぽい雑貨や外国の映画や音楽、ハリウッドスターなどに憧れている姿をずっと見てきていたので、姉が海外に行くというのは姉の長年の夢が叶うことであり、自分のことのようにワクワクした。姉は勉強こそあまり得意ではないものの、コツコツと粘り強く頑張れるところがあり、渡航のための費用もバイトをして貯金をし、渡航のため手続きなど全てを自分で用意したのだ。

私や兄と違って姉は父から厳しい目で見られることも多々あったが、自分の夢を叶えるために全てを自分の力でやってのけ、自分の夢だけは父に邪魔されることなく守り抜いた。

これから外国へ行くというのに私より英語の読み書きもできないし、私より4つも年上なのにいつも何かにつけて私に意見を求めてくるような頼りない姉だった。しかし、静かに己の意志を貫き、やる時はやる。そんな姉を私は誇りに思っていた。

ひとりっ子

そうして高校2年生にして初めて「ひとりっ子」となった私だったが、さすがに高校2年生なので私もそれなりに大人である。

「仮住まい」にいる子どもが私一人だけになっても、親を独占できるとか、親に可愛がってもらえるとかいう想いはなく、父や母と一緒に暮らしながらも、なんとなく「子供が巣立った後の父と母の老後の生活」を傍から見るような、そんな気持ちで日々過ごしていた。 

父にとっては兄や姉がいた頃が一番風当たりがきつかったのではないかと思う。

風当たりというとまるで父が善人で私たち他の家族が悪人のようだが、父にとってはそうだっただろう。何せ自分以外の家族が皆自分のことを忌み嫌っていたわけだから。

そして父はその頃、幾度となく「お前が子どもらにわしの文句を言うとるから、子どもらの態度が悪いんじゃ」といったことを言い、母を責め立てていた。正確には父にいつもそう言われていると母から聞いた。

今となっては、母はなぜ私たちにそのことをわざわざ話してきたのかとも思う。おそらく、とにかく父に腹が立っていて、父の文句が言いたくて話してきたのだと思われるが、そのことに関しては父が言っていることもある意味正論ではあったのだ。

やはり母は、「ひどい夫に耐えながら子育てをする自分」というストーリーに身を置くことで、どうにもならない、どうにもできない自分を納得させようとしていたのではなだろうか。

そんなわけで、兄と姉がいなくなってからというもの、父の文句を言う人や父に反抗的な態度をとる人が減った分、家の中は少しは穏やかだったと思う。しかし、やはり嫌なこともあった。

一番嫌だったのは、ある日母が「これからお金がいる時はお父さんに直接頼んで」と私に言ってきたことだった。

当時私は毎月数千円程度の小遣いはもらっていたと思うが、当然そのお金だけでは洋服やCDを買ったりすることはできなかった。そのため、欲しいものがあっても、その度に父に何か理由をつけて「◯◯にお金必要だから△円くらいお金をください」と言わなければならなくなったのだ。

それは私にとっては非常に苦痛なことだった。

そもそも、ただでさえ話したくない父と話さなければいけないことも苦痛だったし、もしお金の遣い道が父の気に入らない内容だったなら、またいつものように怒鳴られ、関係のない話まで持ち出されて説教をされるかもしれない…。そうやって毎度怯えながら頼まないといけないのもとても苦痛だった。

そして、母が父にどのように言われてそのようなシステムになったのかは知らないが、なんだか私は母に守られることもなく、「もう私は知らないから自分でやって」と、まるで見捨てられたような感覚にもなっていた。

田舎の高校生とはいえ、年頃の高校生である。友達とだって遊びたいし、多少のお洒落だってしたい。しかしバイトがでいない学校だから、親にお金をもらうしかない。

冬休みは学校にバレないように友達と食品工場の短期バイトをして小銭を稼いだりはしていたが、当然そのバイト代で1年間も過ごせるはずもなく、父の顔色を窺いながらお金をもらうしかなかった。

父に声を掛ける回数を少しでも少なく済ませられるように、参考書を買うといって参考書の代金に少し上乗せした金額を提示したりもした。親の稼いだお金をもらうのだから、頭を下げるのは当たり前といえば当たり前なのだが、「どうして毎回こんなことをしないといけないのだろう」「他の家のみんなはこんなことをしているのだろうか」という疑問が常にあった。

落ちこぼれ

私が通っていた高校は共学で一応は進学校だったため、1学年300人ほどのうち、短大や専門学校に進学したり、就職をするという人は学年で10人にも満たなかった。基本的に4年制大学に進学するというのが当たり前だったので、高校2年生になるともう進路を決めるために動きださなければならなかった。

しかし、私は高校に入ってからというもの、全くといっていいほど勉強をしなくなり、友達と遊んでばかりいた。中学の頃は上から数えた方が圧倒的に早かったテストの順位も、高校1年の終わりごろにはもはや下から数えた方が早くなっていた。

1年生の前半頃まではテストの順位の低さにショックを受けることもあったが、途中からどうでもよくなった。

「頭がいい人なんていくらでもいるんだから上を目指したってしょうがない」「勉強はもう十分やったからいいだろう」そんな感じで、とりあえずテスト前だけ徹夜で勉強するといったことをずっと繰り返していた。

テストの点数が悪すぎて放課後や夏休みに補習を受けることもあったが、補習を受けるメンバーも遊び慣れているいつものメンバーだったので、なんなら「ちょうどみんな揃ってるし、これ終わったらみんなで遊びに行こう」といった感じで、そこに何の焦りもなかった。

そんな状況の中、私はいつの間にか服飾関係の仕事に就きたいと考えるようになっていた。もともと服が好きで中学生の頃からファッション誌をよく読んでいたこと、お金がないけど好きな服が着たくて休日や放課後には古着屋に行ってで安い服を漁ってばかりいたこと、好きなモデルさんにファンレターを送ったら直筆の手紙をもらえたこと、兄がモデルのような見た目をしており、服飾関係の仕事に就いたことなど、きっかけとなる出来事はたくさんあった。

そして、勉強もできず、今さら4年制大学に入るための勉強を早くから始める気もなかった私は、高校を卒業したら専門学校に行きたいと思うようになった。

父からは国公立大学に行かない限りは家を出ることは許されないと言われており、兄も姉も私立の大学と短大に進学し、自宅から神戸まで通学していたため、どうせ家から出られないなら専門学校に行って手に職をつけて、早く家を出て自分で稼ぎたいと思ったのだ。そうしたら早く家を出られるし、父に頭を下げる必要もなくなる。それしかない。そう考えるようになっていた。

ただ、そう考えるよりも少し前に、私は中学生の頃に一度「金がかかる」と一蹴されて諦めていた美術の勉強をしたいと考えていた。

というのも、1年生の終わり頃に、同じ学年の普通科(私は英語科だった)の子が受験のためにデッサンを習っているらしい、という話を耳にしたのだ。その話を聞いた時、なんだか少し焦りのような気持ちが芽生えたのを覚えている。一度は失った夢がその時なら取り返せるような気がしたのだ。

そのため、私はその話を聞いた直後に、再び父に「美大か芸大に入りたいからデッサンを習いに行きたい」と願い出たのだった。

しかし、やはりあの時と同じで「金がかかる」のひと言で一蹴されてしまい、私の夢はあっさりと消えた。中学の時に私が美術科のある高校を受けたいと言っていたことは父はもとより母も知っていたはずだ。父はともかく、母は私が美術の道にずっと憧れを持っていたことがずっと知っていたはずだ。それなのに、父の「金がかかる」という発言に対して、その場にいるだけで何の擁護をすることもなかった。ただその場にいて、私の夢が潰える様を見つめているだけだった。

(つづく)