エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

あぶくの家 ⑧働かざる者

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前回の話↓ 

edoandlee.hatenablog.com

働かざる者

「私のお父さんは、保険の仕事をしています。お父さんはお客さんの車が交通事故を起こした時に、事故の現場に行って話をします。休みの日でも、夜中でも、事故が起きると事故の現場に行かなければいけません」――。

私が小学生の時、まだ「仮住まい」が「事務所」だった頃、父の仕事についてこんな作文を書いた記憶がある。私は父が一体どんな仕事をしているのかをそれまでよく知らなかったが、母にこの作文に書いたようなことを教えてもらった気がする。しかしそれから10年も経たないうちに、この作文に書いた父は姿を消してしまった。

いつからああなってしまったのか。私が高校に通い始めた頃には、もう既に父はほとんど働かなくなっていたように思う。父は小さな保険の代理店を営んでいたが、自営業のため勤務時間などは特には決まっていなかった。朝7時ごろに起きてくるが、狭い台所のガスコンロの前に丸椅子を置き、換気扇の下でひっきりなしに煙草を吸っている。

私が通っていた中学校はお弁当で、母が朝早く出勤することもあって、私も姉も自分のお弁当は自分で作っていた。ガスコンロのすぐ横には炊飯器とレンジがあり、レンジの前に60cmほどの隙間を開けて冷蔵庫が置いてあった。その隙間の前あたりにいつも父が座って煙草を吸っているのがとても邪魔だった。

学校のある日は皆父より早く家を出るので、父がその後新聞を読んだりコーヒーを飲んだり、煙草を吸いながら長い間トイレに籠ったり、時間をかけて髭を剃ったりしていてもどうでもよかった。

ただ、例えば夏休みなど長期休暇のある時はその長い長い朝の支度が目障りで仕方がなかった。「いつになったらこの人は仕事に行くんだろう?」「なんでこんなに朝の支度に時間がかかるんだろう?」――。気づけばそんな疑問すら浮かばなくなるほど怠惰な朝の時間は常態化していた。

結局、朝7時に起きてきて事務所であるプレハブ小屋に行くのは9時半頃だったと思う。そしてその後車でどこかに出掛け、昼過ぎには帰ってくる。母が13時半頃に帰ってくるので、外で昼ご飯を食べて来ない日は母が帰ってきて昼食を作るのを待っていることもあった。午後に仕事をしていたこともあったような気はするが、私の記憶では父はいつも15時~16時頃には家に戻ってきていたと思う。

今思えばあれでどうやって生計を立てていたのか不思議であるが、まぁどうにかやっていけていたのだろう。ただ、他の家のお父さんたちより明らかに勤務時間が短いことは間違いなかった。

蔑称

私が高校から帰って来ると、父がプレハブ小屋の事務所でボートレースを見ては電話をかけている、というのが日常と化すようになった。

つまり、私は父の仕事をしている姿をほとんど見なくなった。朝、私が家を出るまでは換気扇の下で煙草を吸ってダラダラと過ごし、午後高校から帰って来ると競艇をしている。競艇の時間が終わると家に入って来る。

私は高校時代、幼稚園からの幼なじみのSちゃんという子と毎日ディーゼルの汽車に乗って高校へ通っていて、Sちゃんの家は私の家から駅に行くまでの途中にあり、とても近かったため、放課後、高校のある隣町から地元に帰ってきた後もよく2人で遊んでいた。

お互いの家を行き来することも多く、Sちゃんの家に行って朝まで喋っていたり、Sちゃんがうちのプレハブ小屋に来て、2人でロフトに上がってラジオを聴きながら夜通し喋ったりすることもあった。私とSちゃんはそんな親しい間柄であったため、Sちゃんも私の父が競艇ばかりしている姿をよく知っていた。

当然父の借金のことなども全て知っていた。そして私たちはいつからか父のことを陰で「借金大王」と呼ぶようになった。私は自分の父がそのような蔑称で呼ばれてもなんとも思わなかったし、むしろその蔑称が相応しいとすら思っていた。

私は後に大学進学のために家を出ることとなるが、父のそのような生活は私が高校を卒業するまで続いた。

家でテレビを見ていると、たまに尼崎競艇のCMが流れていた。当時の尼崎競艇のCMでは「The Water Is Wide」という曲が使われていた。女性ヴォーカリストの美しい曲ではあるのだが、CMの終盤に「Give me a boat」というフレーズがあり、そのCMが流れると父がよく「Give me a boat」の部分を歌っていて、私はもはやそれを聴くたびにいつも腹の中で笑っていた。「Give me a boat」 とは、あなたにぴったりの歌詞ですね、と、あざ笑っていたのだった。

悪口

そんな堕落した生活を送る父である。当然家族は皆、父に対して嫌悪感を抱くようになっていた。

ただ、兄は私が中学生になる頃にはもう大学生で夜遅くに家に帰ってくるような生活だったため、それほど父と接することもなかったし、「もうしゃあないわ」「俺は学費だけ出せてもらえたらええから」みたいな、どことなく俯瞰している感じだった。

そして、兄は長男ということもあってか、家の中ではわりと地位が高いというか、母は昔からいつも兄に対しては強く言えない感じだし、父もアパートの名前に兄のイニシャルを使うくらいなので、なんとなく兄に対しては私や姉とは違う態度をとっていた。兄がたまに父にキレて、父とつかみ合いの喧嘩をしそうになることもあったが、兄はやはりどこか冷静だったし、父もなんとなく兄には気を遣っている様子だった。

一方、私と姉は今でもそうだが仲が良く、青春18きっぷを買って2人で休みの日にどこまで遠へ行けるかやってみたり、夜遅くまで色々なことを話したりしていた。

母とも仲が良かった。後に姉は海外に行くことになるので、女3人で話す機会というのは私が高校1年生の時、姉が短大を卒業するまでの間だったが、それまでは毎日のように父がいないところで父の悪口を言っていた。

ほとんどの場合、その口火を切るのは母だった。当然である。一番父と接するのは母だし、一番父から酷いことを言われていたのも母だったのだから。「今日お父さんにこんなことを言われた」「今日お父さんがこんなことをしていて嫌だった」そういった話を来る日も来る日も、父がいなくなった隙をついては母から聞かされていた。

私も姉も当然父のことは嫌いだったし、気付けば当たり前のように「お母さんが可哀想」と思うように、話すようになっていた。ある時、兄、母、姉、私の4人で家にいる時に、おそらく姉か私のどちらかが言い出したのだと思うが、母に対して「お母さんもう離婚したら?」といった話をしたことがあった。

その話は1回だけではなく何回かしたことがあったと思うが、母はいつもそんなの毛頭無理、非現実的な話といった感じで、「あんたらもおるし、お母さんもパートやし、住むところもないし、田舎やし、そんなんできひんわ」みたいなことを言っていた。

私と姉が「私らバイトするし、どうにかなるんちゃうん?」みたいなことを言い、兄が「俺は金のことがあるから離婚してもお父さんの方についとくわ」みたいなことを言ってみても、母は全く話に乗っては来なかった。そして、おそらく、兄も姉も、私も、そんな話をしながらも、心のどこかで「無理だろうな」という気持ちがあったと思う。

そして母もまた、父と共依存のような状態になっていたと思う。「ひどい夫に耐えながら生きるかわいそうな私」といったストーリーの中を、母なりに生きていたのではないか。そんな時代、地域であったとしても、離婚はやろうと思えばできていたと思う。実際に片親の子だって普通にいたし、自殺した叔父さんの奥さんが子供2人を育てながらもなんとかやっていたのだから。本当に母がその気になれば、きっと絶対に無理ということはなかっただろう。

父を蔑み、父の悪口を常日頃から言いながらも、決して父の支配から逃れることはできない。そんなことをしようものなら本気で殺されるかもしれない。父以外の皆が父のことを疎ましいと思っているのに、なぜか我が家にはいつもそんな重苦しい空気が漂っていた。

(つづく)