エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

あぶくの家 ①生まれ育った町と父との良き思い出

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はじめに

この話は、主に私が生まれ育った環境・家族を軸とした一連の話である。

僅かずつながら私のブログを読んでくださる人が増え始めた今、さして面白くもない、おそらくアクセス数も稼げないであろうこの記事をあえて書くのには、何か自分の内にある「つっかえ」を取りたいような、そんな気持ちがあるからだ。

上手く言えないが、この話を書くことは私がこの先文章を書き続ける上では避けて通れないことだと感じている。

正直全然笑えないし、書いてても胸糞が悪くなることの方が多いと思うので毎日続けては書けないかもしれないが、私が物心ついた頃から現在に至るまでのことを書いていくことができればと思っている。

私の生まれ育った町

私は1981年に兵庫県の瀬戸内海側、岡山寄りの播州地方と呼ばれる地域のとある市で生まれ、高校を卒業するまでの間、その中にあるとある町で育った。

あえて市や町の名前を書かないのは、私の住んでいた地区のすぐ隣にはいわゆる同和地区と呼ばれる地区があり、少なからずその地区の存在が親やさらにその上の世代の人々に影響を与えており、今となっては私の人生にも少なからず影響を与えていたと感じるからだ。

なお、私はその地区に友達もいたし、私も長い間実家に帰っていないのでわからないが、おそらく今は当時よりももっと同和地区の影は薄くなっているだろう。

特に関東の人にはわかりにくい話かもしれないが、私の住んでいた場所の近くにある同和地区ではある特殊なある職種の工場が川沿いを中心に広がっており、私の親世代だと「あの地区で事故などを起こしたらややこしいから、通らない方がいい」みたいな話をよくしていた。

小学校でも「道徳」とセットで「同和」という授業があった。

当時からぼんやりとした内容しか伝えない授業ではあったが、私はその地区の隣の地区に住んでいたので、「私たちはもう何も気にもしていないのに、なぜ過去の差別の話をわざわざ今するのだろう。かえって差別を助長するのではないか」と子どもながらに思っていた。

話が逸れてしまったが、そんな少し特殊な地域で私は生まれ育った。おそらく関西ではあまり珍しい話でもないと思うが。

広大な田畑とディーゼルの汽車

区画整理のため今ではもうすっかり住宅地となり、見る影もなくなってしまったが、私が小学生の頃くらいまで、私の家の前には広大な田畑があり、そのずっと先の土手のようなところには単線の鉄道の線路が通っていた。国鉄がJRになった頃は、線路沿いにJRになることを祝うのぼりが立てられていたことを覚えている。

詳しいことは知らないが、その鉄道は電車ではなくディーゼルで、おそらく最近になってようやく電化されたのではないだろうか。車両は1両か2両が普通で、最寄り駅に汽車が停まるのは1時間に多くて3本。1時間に1本のこともある。とにかく田舎である。

家の前には田畑しかないので、汽車は家からも良く見えたし、汽車から家も良く見えた。夜には家の窓からゆっくりと通り過ぎて行く夜汽車が見える。田舎過ぎて線路を囲う柵なんてものはないし、線路には立ち入り放題。線路のすぐそばで遊んでいて汽笛を鳴らされることもよくあった。

広大な田畑では米や麦が育てられていた。春にはレンゲ畑が広がり、レンゲやシロツメクサを摘んだりしてよく遊んだ。小さな川で魚や亀を捕まえることもあった。

子どもだったので余計に広大に見えたのかもしれないが、見渡せば延々と広がる緑と、すぐそばにある山。広い空。すぐそばには同和地区の人たちが働く工場地帯があり、工場から独特の悪臭や薬品のような匂いが漂ってくることも日常ではあったが、今思うと若干の闇のようなものを抱えつつも、それなりに美しいというか、のどかで過ごしやすい場所だったと思う。

父との思い出

幼稚園くらいまでだっただろうか。私はそんな家の前に広がる田畑を父とよく散歩した。犬の散歩をすることもあったが、とにかく広い場所だったので、父は家のそばのあぜ道からゴルフの打ちっぱなしをし、家の前に広がる田畑に散らばった数十個のゴルフボールを散歩をしながらかごに拾い集めて帰るということをよくしていた。

その時、私はよく肩車をしてもらっていたのを覚えている。肩車をしながら散歩をするのはとても楽しかった。

私は6つ上の兄と4つ上の姉がいる3人兄妹の末っ子で、当時は家族の中で一番小さな存在なのでとても可愛がられていた。そして、母が死んだらどうしようといつも不安になるくらい母のことが大好きだったし、父のこともまた大好きだった。もちろん兄や姉のことも好きだった。

父は動物を拾ってきたり、春になると線路沿いに生える土筆を摘んで料理にしたり、犬小屋を作ったり、家のすぐそばに小さな菜園を作ったり、色々なことができる人だった。家のまわりの草刈りをしている時にマムシが出た時は、咄嗟に草刈り機を振り回してマムシを殺して皆を驚かせたこともあったし、ある時は土の中にいたモグラを見つけて見せてくれたりもした。色々と面白いことを考えては子どもたちに見せてくれるような人だったので、いとこや近所の子どもたちからも「面白いおっちゃん」として好かれる存在だったと思う。近所のおっちゃんたちとも楽しそうにしていた。

そして、父との思い出で特に心に残っているのは、夜に父が作る冷たい麺だ。

おそらくうどんのようなものだったと思うが、なぜ遅い時間に父が作っていたのかはよくわからない。父は何度となく夜の9時とかの遅い時間にうどんを手作りして、私たちや母に食べさせた。私はその夜遅い時間に父が作ってくれる特別なうどんを食べるのが大好きだった。

正月には近所の松林から松を切ってきて、居間の天井の近くに「松飾り」と呼ばれる正月用のクリスマスツリーのようなものを飾っていた。父は自営業で保険代理店を営んでいたので、おそらく商売繁盛を願うためだろう。その松に鯛や七福神、小判などの派手な飾りを吊るすのだ。

そして、お正月には家族でこたつに入りながらキン肉マンドンジャラゲームをするのが恒例だった。5人家族なので、私は父が胡坐をかいた上にちょこんと座り、いつも父と一緒のチームだった。

父との思い出で一番楽しかったのは、間違いなくあの頃、まだ私が幼稚園くらいまでの頃だ。

父が今もあの頃のような父でいてくれたなら、私の人生や人格はどれほど違っていただろうか。幼い頃の父と娘なんてだいたいそんな感じで、皆良好な関係なのかもしれないが、そう思う。

(つづく)