エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

発達障害と真面目に向き合おうとする親ほど苦しむという矛盾

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今日は4日ぶりに家から出て、ある勉強会に行ってきた。

先月の日記でチラッと書いた、子どもの発達のことで悩む親たちが集まり、悩みなどを一緒に考えるという会である。

今日のことについてはプライバシー的な問題もあると思うので、ある程度ぼやかして書く部分もあるが、今日は私が前からずっと思っていることなので、ひょっとしたらきつい書き方や誤解を招くことを書いてしまうかもしれない。

不快な想いをさせてしまうかもしれないので、先にお詫びしておきます。

皆が追い詰められていた

今日私が出席した会は10人も満たないほどの小さな会だった。

そして、そこには子どものタイプや悩みは違えど、発達障害に関する何らかの悩みを抱えた、小学生の子を持つ親たちが集まっていた。

ある人は保育園の時に先生から療育を勧められた人、ある人は小学校に入ってから子供が度々問題を起こすようになって異変に気づいた人、中には日本語は流暢だが外国の人もいて、その人は自己紹介の時点で「親しい人も身近にいないし誰にも相談できなくて…」といって泣いていた。

そしてまたある人は、奥様が仕事で自分は在宅勤務なので…ということで旦那様がきていたりもした。その人は禁酒もしているとか言っていて、帰りに「煎じて飲ませたい人がいるので、爪の垢をいただけませんか?」と声をかけようかと思ったくらいだ。

短い自己紹介ではあったが、皆それぞれに悩みを抱え、藁をもすがる想いというか、とにかく皆少しでも現状を改善させたいという気持ちを持っていることがすぐにわかった。

子どもとの向き合い方を見つめなおす会

今日の会の目的は「発達障害とは何か」について勉強するものではない。

あの場にいた人は皆、そんなことはもうひととおりわかっているというか、現実として「はっきり言って育てにくい子」を目の前にして、どうしたらいいかただ悩んでいた。

これはあくまでも私の考え方だが、いくら発達障害の本を読み漁っても、その本は自分の子どもへの対応について書かれているわけではない。子どものタイプ、周囲の環境、親の性格、ありとあらゆることが人それぞれ異なるので、発達障害の子どもを持たない親が読めば逆に勉強になるかもしれないが、当事者にとってはあくまでも答えではなくヒントにしかならないと思っている。そこで知識をどれだけ身に付けても、実践で活かせないと意味がないのだ。

家に帰れば今日も対峙しなければならない我が子がいる。そんな我が子とどう向き合えば自分が少し楽になれるのか、いつもより軽く受け流すことができるのか…今日の会はそんな感じのことを考える会で、月1回であと3回実施される予定がある。

皆に共通すること、それは「真面目」

今日は時間も限られていて、その中でも今日はプログラムの入口という感じだったので、それほどの気づきを得られることはできなかったが、それよりもその場に来ている人たちから学んだことがあった。

それは、やはり皆が皆、揃って真面目なのである。

ワークの中で「自分のいいところ」や「努力しているところ」を紙に書く場面があるのだが、皆、「自分のいいところ」や「努力しているところ」に「部屋を綺麗にするように心がけている」とか「家族のタイムキーパーになっている」などといった「家庭が乱れないように守る」といった趣旨のことを書いていたのである。自分で言うのもなんだが、私も同じようなことを書いていた。

そもそも、日頃から療育センターのお世話になり、今日のような会に出席するような親は、我が子の発達障害を正面から受け止め、苦しみもがいている人たちである。よっぽど悩んでないと、そしてよっぽど真面目じゃないと月曜の午前中から来るはずもないのだ。

真面目に向き合えば向き合うほど苦しむという矛盾

禁酒をしていると話していた例の尊敬すべきお方が、様々なことが自分でできない我が子について「いつまで続くんだろうと思う」と仰っていたのだが、それは発達障害と真面目に向き合っている人であれば誰もが感じていることではないかと思う。

以下を読んでいただいてもおわかりになるかと思うが、発達障害は簡単に言うと、脳の働きの違いによるものだ。

www.mhlw.go.jp

そのため、薬である程度コントロールしたり、訓練を行ったり、その人の特性に合った環境を用意してあげる以外、いわゆる「普通の人」「特に問題のない人」に完全に戻ることなんてない。現在の科学では、癌などの病気のように治療して完全に治るものでもないし、もちろん、育て方の問題ではなく、そのような人とは全く別のタイプの人間なのだ。成長とともに特性の出方が緩やかになっていくことはあっても、「あぁ、これで一安心だね」なんてことはまずないと思っている(あくまでも私の考えです)。

「この子の将来に居場所はあるのか」「この子はこれからどんな大人になるのだろう」、少しでも我が子が生きやすくなるように親が考え、向き合い、努力しようとすればするほど、苦しむといっても過言ではないのだ。

真面目に向き合おうとしない親に対して思うこと

私が今日一番書きたかったのは、このことである。

私の娘は今のところ小学校は普通級に通っているが、同じクラスお友達のお母様と偶然話すことがあり、その方の話によると、娘よりもよっぽど問題行動(といったら語弊があるかもしれないが、他の子どもたちの心を乱すような行動や他害)があり、「絶対療育に行った方がいいのに…」という子がどうやらクラスに何人かいるようなのだ。しかも、聞くところによると療育などに通っているわけでもなく、親もその気がなく、そのまた親(祖父・祖母など)もその気がないというパターン。

このようなパターンは、以前息子が通っていた小学校でもあった。明らかに先生が補助についていて、親も明らかに他の親より学校に呼び出されているのに、放置している。ある時は他の何の問題もない子にいじめられたかのような言動をする親…。

さらに遡ると幼稚園の頃にもそいういう子はいた。「それって明らかに…ていうかもう問題行動起こしてるし」という子なのに、親は断じて認めようとしない。逆に指摘しようものなら怒るので先生も何も言うことができない。

そういう感覚は私には全くなかった感覚なので、正直根本的には理解はできないが、「うちの子はこんな子なだけ」「子どもだから」「これもこの子の個性だから」「しばらくは様子見で」といった理由で子どもに何らかの発達障害があることを認めようとしない親は、自分の子に問題があるなんて認めたくないし、考えたくもないのかもしれない。

自分の親世代なんて特にそのように考える傾向は強いので、そいういう考え方をする人がいるのもわかっている。実際に私も娘が小さい時に義理の母や自分の母にもチラッと話した時に「大丈夫なんじゃない?」「気にしすぎなんじゃない?」「違うんでしょ?」みたいなことを言われたことがある。

大丈夫ってなんですか?違うってなんですか?

そいういうことじゃない。ただ私は、自分の子どもが将来自立して生きていくことができなかったり、自立はできなかったとしても誰かに助けてもらえなかったり、人に騙されたり、誰かを傷つけたり、事件に巻き込まれたり、何かのはずみで加害者になったりすることを避けたいだけなのだ。ただ単に、いわゆる「普通の人」のように、世界の片隅でいいから、悲しい想いや辛い想いをせずに生きていて欲しいだけなのだ。

きっと我が子が発達の問題を抱えている人って、そういう気持ちがあるから、今向き合おうとしているんだと思う。

我が子の問題に対して向き合おうとしない人は、単純に気づいてない人ももちろんいるだろうけど、我が子というか、自分が我が子を守らなかったせいで誰かが不登校になったり、傷ついたり、時に加害者になる可能性があることがわからないのだろうか。

どうすればわかってもらえるのだろう。

どうすればそれが差別ではなく、子どものためだと理解してもらえるのだろう。

LGBTの問題みたいに、もっと理解する人が増えれば、発達に問題を抱える人だって、もう少し生きやすい社会になるのではないだろうか。

なぜ、真面目に向き合おうとする親ばかりこんなに苦しまないといけないのだろうか。

誰のせいでもないのに。

そんな子供を産んだのが悪いという人がいるのなら、産めるもんならお前も産んでみろと言いたい。

ここで私がどれだけ声を上げようと、本当に届いて欲しい人には届かないだろう。

しかし、何かできることはないかといつも考えている。

それは、自分自身が、自分の娘よりももっともっとたくさんの問題を抱えている人を知っていたり、自分も含め、我が子のことがきっかけで精神を病んだり、暗い気持ちになってしまっている人を見てきているからかもしれない。

ここでどれだけ声高に叫んだって仕方ないけど、なんだか矛盾を感じるのだ。

せめて、自分を含め、似たような悩みを持つ人にとって、少しでも心安らかになれる時間が増えればいいなと思う。

たとえほんの小さなことでも、自分だからこそできないことはないかと考えている。

 

(なんだか結局まとまりのない文章でごめんなさい)