エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

みそ汁の存在

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皆さんの食卓には夕食の時にみそ汁が出てくる(あるいは出している)だろうか。

私は1人暮らしをしていた頃は作っていなかったが、結婚をしてからはだいたい毎日のように夕食にみそ汁を作っていた。

多分それは自分の実家がそうだったからなんとなく「夕食にはみそ汁がある」という感じで作るようになったんだと思う。

我が家のみそ汁

子どもが生まれ、働くようになってからは時間があまりないこともあり、基本的に夕食の構成は主菜1品、副菜1品(調子がよければ2品)、ご飯、みそ汁というお粗末なものになったが、それでもみそ汁は毎回インスタントではなくちゃんと鍋で作ったものを出していた(ちゃとと言いつつだしはパックのだしだが)。

具材はいつも似たり寄ったりではあるものの、だいたい3種類くらい、だしパックは何種類か試したのちにコープ経由で手に入る決まったものを使っていて、みそも近所のスーパーで買える決まった減塩のものを使っている。

ただ、私は別に食にうるさいわけではなく、わりとなんでも美味しいと思って食べるタイプなのでいうほどこだわっているわけではない。ただみそ汁についてはなんとなく作っているうちにこの組み合わせが美味しいと思うようになり、落ち着いているのだ。

しかし、昨年から夫(仮)と別居を始めてからというもの、少しずつみそ汁を作る頻度が減ってきていた。というのも、まず↓にもあるとおり娘が偏食気味であり、一般的な感覚ではみそ汁の何がいけないのか理解できないのだが、娘がみそ汁を拒むようになったからである。

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さらに、愛用しているだしパックが1パックにつき水を700mlくらい使わないといけないため、ちょうどよいだし加減にしようと思うと息子と私だけが飲む(食べる)分のみそ汁にしては量が多くなってしまうのだ。

そんなこともあり、私は昨年から次第にみそ汁をあまり作らなくなり、夕食にみそ汁が欲しい時はインスタントのみそ汁を自分だけ飲むようになっていた。ちゃんとみそ汁を作る頻度はここ数ヶ月は1週間に1回あるかないかくらいだったと思う。

以前なら考えられなかったことではあるが、みそを賞味期限が来るまでに使いきれなくもなっていた。もちろん娘はみそ汁がなくても何も言わないし(むしろなくて安心していると思う)、息子は↓にも書いたようにカブのみそ汁は好きなようだったが、私だけインスタントのみそ汁を飲んでいても何も言ってこなかったのでそれでいいと思っていた。

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息子のひと言

しかし、昨日の夕食の時、1週間ぶりくらいにみそ汁を出したところ、息子が「あ!今日みそ汁ある!」となんとなく嬉しそうな声で言ったのだ。みそ汁は息子の好きなカブのみそ汁でもなかったし、具材も豆腐と椎茸だけの私的には少し手を抜いたものだったが、そんなみそ汁でも息子が「みそ汁がある!」という反応をしたのはなんだか意外だった。

繰り返し言うが、私は食にうるさいわけではない。そして料理も好きではない。餃子とか冷凍の方が楽だから自分で作るのなんて年1回くらいだし、チンジャオロースとかを作る時にクックドゥを使ったりする。今日も夜はからあげを揚げる予定だが、自分で味付けなんてしないし、からあげ粉を使う。迷ったらクックパッドで他所の家のレシピを参考にする。そんな感じである。

ただ、なんとなく夕食に関してはある程度は自分で作ったものを子どもに食べさせたいという気持ちがあるため、ほぼ毎食何かしら作ったものを出している。また、肉は国産しかだめとか、有機野菜を選ぶとか、そういうこだわりは全くないのだが、節約料理とかはやりたくないと思っている。わかりやすく言うと「もやしでボリュームアップ」とか「食費は1カ月◯万円まで&業務スーパーで買いだめ」とかはやりたくないと思っている。そういう努力をしないからいつまでたってもお金が貯まらないんだと言われたらごもっともだが、なんとなく日々の食事をケチるのが嫌なのだ。まぁそこの考え方は人それぞれだろう。

話が逸れてしまったが、なんとなく私は夕食に関してはある程度「家庭の味」みたいなのを大切にしようと思っている(クックドゥに頼っている奴がいうセリフではないが)。なので、なるべく夕食が作れる日は作ろうと思っている。ていうか、ほぼ引きこもりなので「毎日お惣菜を買って帰る」みたいなことができないという理由もある。

で、何が言いたいかというと、昨日の息子の「みそ汁がある!」という発言を聞いて、子どもは普段食事についてあーだこーだ言うわけではないけど、言わないながらも「落ち着く味」みたいなのが子どもながらにあるのかなと思ったのだ。子どもは残酷なもので、普段私が作った料理よりも、スーパーのお惣菜コーナーのおばさんが巻いたまぐろの巻き寿司とか、市販のピザとかハンバーグとかの方が喜んだりすることも多々ある。しかし、言わないだけで、私のような料理が好きじゃない人間が作った料理であっても、やはり日常的に口にしている「家庭の味」にどこか安心感を得ているのではないだろうか。

だからなんだという話なのだが、食事って美味しければいいとか、好みに合えばいいとか、それだけでは駄目というか、なんかそれ以外にも何か大切なものが隠れているような気がする。こう書くと「それは愛だろ」「お母さんの愛情だよ」みたいな、クサい感じの話の流れになってしまうので嫌なのだが、手の込んだ料理をしなくとも、作ったものを出すとか、「いつもの味」みたいなものを出すのって、人の心にとって結構大切なことなのかもしれない。

お義母さん(仮)の言葉と学び

結果的にちゃんとした人間に育ったのかは甚だ疑問ではあるのだが、私は夫(仮)の母、つまり義理の母(仮)が話していたことでなんとなく心に残っている言葉がある。それは「家でちゃんととした食事をさせてたらおかしな子には育たないよ」という言葉である。

この言葉についてエビデンスは全くないのだが、お義母さん(仮)はかつて「はまっこ」と呼ばれていた横浜市の小学校でやっている学童のスタッフみたいなのをやっていたことがあって、そこで色々な家の子がいるのを見てきていたのだ。お義母さん(仮)曰く、可哀想になるくらいほったらかされている子どもとかもやはり中にはいたらしい。そういうのも見てきたお義母さん(仮)の話でもあるので、なんだか私はその言葉に妙に納得したというか、今でも「おにぎりだけでもいいから何か作ったものを食べさせたい」みたいなところがある。

夫(仮)を見ていると「ちゃんとした料理食べてたのにこれかよ」みたいなことも多々あるが、少なくとも法に触れるような人間にはなっていないので、お義母さん(仮)の言葉はまぁあながち間違ってもいないのかもしれないと思うのだ。

食事について、人それぞれ色々な考えがあると思うし、私は私でこれからもクックドゥ的なものに頼っていくだろう。ただ、息子の昨日の発言は意外ながらも純粋に嬉しく感じたし、なんだか日々のちょっとした積み重ねが認められたような気もした。ちょっとしたことではあるけれど、何か大切なことを学んだ。