エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

自由と時間と私の中の正義

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今朝、インスタで知り合ったあるお方が「自由」について書かれていた。その方も文章を書かれる方で、お会いしたこともない方だけど、なんとなくシンパシー?を感じるものがあり、毎朝その方の文章を読んでは、そのことについて考えるのが最近の私のモーニングルーティンである(←モーニングルーティンってちょっと言ってみたかっただけですごめんなさい)。

仕事と時間軸

ところで今、私は仕事の「待ち時間」にこれを書いている。ここでいう「待ち時間」とは、自分の出した原稿に修正が入って返ってくるのを待ち、さらに納品する時間を待っている時間を意味する。

今月の仕事はまだ山ほど残っているので、本当は別にそんなの待ってないで早く次の仕事をしていてもいいのだが、なんだか落ち着かなくてできない。多分、私は私を知る人からはわりとマルチタスク人間ぽく見られていると思うが、実は全然そんなことはなく、ひとつのことを終わらせてからでないと次のことができない。

つまり、実は同時進行で色々やっているわけではなく、人に見られないところで時間をかけてひとつひとつを終わらせているだけなのだ。

なんかこんな風に書くと陰でめっちゃ努力してるアピールみたいに思われそうだけど、全くそういうわけではなく、単純に自分の時間軸でないとうまくやっていけないのだ。

理由はいくつかあるものの、私が雇われライターからフリーのライターになった理由の一つにも、この時間軸の問題が関係している。

時間と自由

雇われライター時代の話はまた別記事で詳しく書く予定だが、雇われライター時代は、今のような1文字◯円とか、1記事◯円とか、一仕事◯円とかじゃなくて、時給制だった。私は途中からその会社のライターチームのリーダーを任されていたので、周りの人より少しだけ時給は多くもらっていたのだが、それでも時給制であることにはやや疑問を感じていた。

なぜなら、速く書いても遅く書いても報酬が変わらないからだ。これは「自分が速く書けるから、いくら書いても遅い人と同じ時給なのが嫌」というのではない。むしろその逆だ。自分の方が良い記事を書いているのに、書くことが遅いことを責められるのが嫌だったからだ。

私は客観的に見てタイピングスピードはそれなりに速いと思うが、記事を書きあげるスピード自体はライターの中でも確実に遅いと思う。それは、一つの記事を書き上げるまでに、書いては消し、書いては消しの作業をめちゃくちゃ繰り返しやっているからだ。ただ、そのことについてはある意味こだわりを持ってやっている。

自分で言うのもなんだが、私は内容は別として、よく自分の文章を「読みやすい」という言葉で評価されることが多い。多分それは、何回も自分の書いた文章を頭の中で読み返して、「流れ」を作っているからだと思う(大事なことなので繰り返し言うが、内容は別として、である)。

仕事として考えると、もちろんスピードも大事ではあるのだが、私はスピード重視の質の悪い記事を量産することについて疑問を持っていた。それは今でも変わらない。源氏物語の時代(よくわからんけどそのへん)からずっと価値のあるものとして人々の前に存在していた文章というものが、どんどん安っぽい「消耗品」へと成り下がっていく、そんな風に感じるのだ。

私が今メインでやっているネット記事の仕事なんてまさにその罪に加担しているようなものなので、言ってることとやってることが矛盾しているともいえるのだが、その中でも少しでもマシな記事を書きたいと思いながら私はいつも仕事をしている。

話が逸れてしまったが、雇われライター時代、途中から「1記事書くのにどれだけ時間がかかったかタイマーで測って記録するように」というお達しが出された。質が悪い上に遅いのは言語道断だが、質の高い記事を書いても遅ければ評価されない。それがすごく嫌だったし、私にとってはそれがめちゃくちゃプレッシャーだった。

そんなこともあり「時給換算したら数百円になったっていいから、自分の時間軸で自分が良いと思える文章を書き上げたい」――。そんな想いが次第に強くなり、私はフリーのライターになった。

そして実際に今も、時給換算したら最低賃金を下回っていることなんてザラにあると思う。この記事なんて0円だし。

時間と正義

で、話は冒頭の件に戻るのだが、先日、私が仕事を受けているクライアントの中のとあるクライアントから「早く納品しすぎないで」といった旨のお達しが、同じ仕事をする全ライター宛に送られてきた。

その仕事は、いわば孫請けのような仕事で、発注元はCMでもおなじみのかなり名の知れた大きな会社だ。その会社の仕事をクリエイター向けのエージェントが受けて、さらそのエージェントから私たちフリーランスのライターが仕事をもらっているという構図だ。

Webライターの仕事ははっきりいって腐るほどあって、選ばなければ仕事がなくなるということはまずないのだが、基本的にどれだけ長い付き合いで担当者と仲良くやっていても、会社の方針でいきなり来月から仕事が来なくなるようなことが当たり前に起こる世界でもある。

そのため、私はリスクヘッジのために、昨年別居の話が進み始めたと同時にそこの会社の仕事を受けるようになった。理由は発注元が大手で需要が途切れなさそうなのと、報酬がそれなりに良かったからだ。

基本的に間に立つエージェントの人はいい人たちばかりで非常に親切なのだが(その人たちも辞められたら困るしね)、仕事の構造上、やはりどうしても発注元に気を遣わなければならない。それは仕事をもらってるのだから当たり前だと思う。

ただ、今回の「早く納品しすぎないで」メールには違和感しかなかった。なぜならその理由が「納品予定時刻より早く納品すると、発注元の担当者が納品メールを見落としてしまう可能性があるから」といった趣旨のものだったからだ。

前倒しして納品するといっても、別に納品予定日の何日も前に納品するわけでなはい。早いと言ってもたかだか納品予定時刻の2時間前くらいである。それを「早くても30分前くらいにしてくれ、難しかったら前もって発注元の担当者に相談してくれ」というのである。

「納品時刻より遅い納品が多いので、時間を守ってください」って言ってるならわかる。でも、この件に関しては「どんだけ大量のメールが届いてるのか知らんけど、件名にもちゃんと『納品のメールです』ってわかるように書いてあるのに、そんなもんメールをちゃんと見ない方が悪いだろ」「関係ないメールが大量に届いててもそこから必要なメールを見つけて開くのも仕事だろ」と私は思ってしまったのだ。

ここで「私の中の正義」が発動してしまった。

発注元からしたら、私たちフリーのライターなんて孫請けの仕事をやってるような虫ケラみたいな存在かもしれないが、こっちにだって自分の時間を自分の意思で使うという権利はある。たった数時間の間に来るメールを見分けるくらいの能力もない奴の為に二度と手に入れることのできない自分の時間を縛られてしまうなんてまっぴら御免だ。

私は多分、今日でこのクライアントの仕事を受けるのは終わりにするだろう。

別に契約書を交わしているわけでもないので、もしまたこのクライアントの仕事をしたくなれば、担当者さんに連絡をとってみれば良いだけの話だ。

不自由な自由を道連れに

フリーになってもう3年以上経つと思うが、フリーの仕事は自由なようであって、自由ではない部分が非常に多いと感じる。

先日もとある方から仕事の依頼があったのだが、「で、江戸さん的に単価はいくらくらいが希望ですかね?」といった質問をされた。私は基本的に文字単価2円以上の仕事しか受けないことにしているので「その内容なら別に税抜き2円以上だったらいいですよ」と答えたのだが、「そんなの安すぎるでしょ!絶対それより高くいきましょう!」と笑われてしまった。とにかくこんな感じで、自由なようで自由じゃないのだ。

目には見えない不自由のある、自由な世界で私は仕事をしている。

でも、仕事を手放したら、また仕事を探せる自由もある。

自分で仕事を取ってこなければ、収入がなくなる不安は常にあるが、先に言ったとおり、この仕事は選ばなければ腐るほど仕事自体はある。

こんな私でも1年くらい働かなくたって今の生活を続けていける程度のお金はあるし、まぁなんとかなるだろう。全てのクライアントの仕事をやめるわけではないし。

せっかく選んだこの道だから、自分なりの正義を振りかざしながら、不自由な自由を道連れに、ぼちぼち楽しく、のらりくらりとやってこう。

 

(あねもねさんへ:今日はこの話を書きたくて書いてしまいました。整理収納の話、多分明日分でアップします。お待たせしてすみません!)