エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

コーヒーレディーはマルドロールを駆け抜けて④

前回の話↓

edoandlee.hatenablog.com

たった一言で

忙しいけどバイトをしないと本当に貧乏学生になってしまう。そして1日でも早くこの11平米の狭すぎる部屋から引っ越したいと考えていた私は、バイトを探していた。

大学に入学したのは2000年。ミレニアム。当時はもちろんスマホなんてなく、パソコンを持っている学生だって意識の高いごく一部の人だけだった。だって、学校の中に広い「パソコンルーム」があったくらいなのだから。そこに行けばネットが使えて、印刷もできるからって、結構使っている人は多かった。ただプリンタの調子がいつも悪くて毎回イライラさせられた記憶がある。

そんな時代だ。私はauを使っていたから「ezweb」だったわけだが、まぁ一応ネットは使えて、携帯からバイトを探すことはできた。ただめちゃくちゃ画面は小さいし、今のスマホなんかと比べ物にならない状態だった。初代ファミコンくらいの画質と言っても過言ではないだろう。

で、今はどうなのか知らないが、当時は今でいう「タウンワーク」の有料版のようなものが売られていた。「フロムエー」とか「アン」などの求人情報誌がコンビになどの雑誌コーナーに販売されていたのである。「ezweb」より確実にそっちの方が見やすいので、私はフロムエーを買ってバイトを探していた。

そんなある日、シダが家に来ていた時のことだった。私は「コーヒーレディー募集」というひとつの求人を見つけた。

当時の大阪の最低賃金は699円。コーヒーレディーの時給はたしか平日1000円だか1100円、土日はさらに1200円とかだったと思う。800円ですら「おっ、結構時給いいじゃん」ていう時代である。時給が1000円を超えるバイトなんてわりとヤバい系か人がやりたくない系くらいしかなかった。

「これ、めっちゃ時給ええんやけど、コーヒーレディーって何やろ?」シダに尋ねると、シダは「あぁ、パチ屋で客にコーヒー売るやつやろ。リイちゃん結構合うんちゃう?」と言われた。

実家にいたころ、大学生の兄がパチンコ屋でバイトをしていて、パチンコ屋のバイトの時給がいいことは知っていたので、なるほどなと思った。ただ、パチンコ屋に行ったことのなかった私にとってはうまく想像ができない仕事だった。コーヒーを売るとは…?

勤務地は平野区のJR平野駅前のパチンコ屋。平野区東住吉区の隣なので自転車で通えない距離ではなかった。というか、電車を使うと逆に時間がかかるし面倒だった。

「髪型自由」「土日だけの勤務OK」「ボーナスあり」「コーヒーをお客様に提供する簡単な仕事です」など魅力的な言葉が並べられており、さらにシダの「合うんちゃう?」という言葉で私はすっかりその気になってしまった。

コーヒーレディー。そんな仕事が存在することすら知らなかった私なのに、その日のうちに私は問い合わせ先に面接をしてほしいと電話をかけていた。

茶店にて

面接は平野駅近くの団地だかマンションだかの1階にある古びた喫茶店で行われた。梅宮辰夫を小さくしたような「社長」と、平野レミを落ち着いた感じにさせたような「奥さん」、そしてチーフと呼ばれる工藤静香みたいな雰囲気の若いお姐さんの3人だったと思う。

ちゃんとした店舗ではなく全然関係ない古びた喫茶店で面接をするというところからして「ちょっと怪しいのでは…?」とも思ったが、面接をしてくれた3人は皆感じの良い人だった。何を話したのかは全く覚えていないが、どういう仕事をするか説明を受けたりしたんだと思う。「同じくらいの歳の女の子も働いているよ」みたいな話とか、枚方とか交野、橿原でも仕事をやってて、人手が足りないときはそこにも行ってもらうこともあるかも、みたいなことを言われた気がする。

面接はあっけなく終わり、あっさりと採用が決まった。2週間後の土日から私はコーヒーレディーとして働くことになった。夏休みはできるだけ毎日来てほしいとのこと。

8時半にJR平野駅前のMというパチンコ屋の前に来ること。着替えはパチンコ屋の2階の一室でできること。ボールペンを用意しておくこと。自転車で来てもいいこと。その日までには制服を用意しておくから私服で来ていいことなどが伝えられた。

2週間後の土曜日の朝、私は早速アサヒで買った銀色のママチャリを漕いでパチンコ屋Mへと向かった。自転車で行ってみると結構距離はあったが、まぁ行けない距離ではなかった。ジーパンとTシャツといういつものダサい格好で。髪は金髪でもなく灰色でもない、くすんだ色をしていた。7月くらいだっただろうか。夏休みはすぐそこで、もう外は暑かった。