エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

ペットと畜生【後編】

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義理実家の犬と息子。犬はもうこの世にはいない

今日〆切の記事があと残り1本あるのだが、もう昨日は子どもがいる中で3本も書いて頑張りすぎたので、今日は昨日の続きを書いて寝ようと思う。
ということで昨日の記事↓の続きです。

edoandlee.com

仔犬たちのゆくえ

私が幼少期の頃に飼っていた雌犬のハッチは、8匹×3回+1回1匹=合計25匹の仔犬を産んだわけだが、当然全ての仔犬をうちで飼うわけにはいかなかった。

最後の1匹については前回の記事↑に書いたとおり、飼い主が見つかり無事引き取られたのはよく覚えている。

そして、1回目に産んだ時もやはり仔犬は可愛いく、育てているうちに愛着も湧くので、私たち兄妹(兄・姉・私)はせめて1匹だけでも自分の家で飼いたいと親に頼み、多分その時は親もそこまで渋るわけではなく、1匹は家で飼うことになった。

その犬は「ゴン」という雄犬だった。なお、ゴンの名前についてはおそらく「ごんたくれ(多分関西方面の方言?)」から来ていたと思う。

ゴンは当初はその名のとおり元気いっぱいのやんちゃな犬だった気がするが、ある日父がゴンを散歩している時に他の家の犬に噛みついたかなんかで、父がキレてゴンを思いっきり足で蹴飛ばして、ゴンはその衝撃で嘔吐し、多分そのショックでゴンは心に傷を負ってしまったようで、そこからゴンはすっかり臆病な犬になってしまった。

父のキレた時のヤバさについてはおそらく後日書く予定の記事にも何回か出てくるとは思うが、とにかくうちの父は動物好きのような面がみられる一方で、このように猟奇的な面があった(まだ生きているが)。

話が逸れてしまったが、たしか1回目の出産で生まれた仔犬たちは色々な人に引き取ってもらえて、3回目の出産の時も、初めて8匹のうち4匹が白い犬で、しかも、なんかわりと毛並みもフワフワで可愛かったので、1匹はうちでまた飼うことにし、残りの犬たちもうまい具合に引き取られていったと思う。

なお、その時うちで飼うことにした犬は「蘭丸」といって、当時流行っていた宮沢りえのドラマの登場人物の名前からとった(かなりどうでもいい)。

ということで、最終的に我が家は一時3匹犬を飼っていた。それに加えて「シマ」という猫もいて、その猫は前回の記事で書いた拾われてきた3匹の子猫のうちの生き残った1匹だった。なぜか一番温厚な猫が生き残り、そしてシマもまた15年以上生きたのだった。

ライオンのえさ

私の記憶が確かなら、おそらく2回目の出産の時に生まれた仔犬のうち数匹は引き取り手が最後まで見つからなかった。最後、といっても脚や顔が伸びてくる前の仔犬の期間の話ではあるのだが、ゴンをすでに飼っていたこともあり、しかも1匹ならまだしも数匹も残ってしまっていたので、うちで飼うという考えには至らず、最終手段である保健所に連れていくことになった。

今となってはなんでそんな悲しい場面に私も一緒について行ったのかよくわからないが、当時父が乗っていたクラウンかなんかのトランクを少し開ける感じにして、仔犬たちが外に出ないように網かなんかでカバーして、川沿いの道を車で走って連れて行ったのを覚えている。

そして今となってはそれは単なる風評であり、父も本気でそう信じ込んでいたのかもわからないのだが、私が「犬、どうなるん?」と聞いたら「里親会でもらわれへんかったらライオンのえさになるんやで」と言われたのを記憶している。

その時の自分の感情がどうだったかはよく思い出せないが、そこで「そんなの可哀想!いやや!」とか言って号泣したりはしなかった気がする。なんとなく「そうなんや…」みたいな、「いらん動物って最後は他の動物のエサになるんや…」くらいの受け止め方だったと思う。

今思えば、その頃から私の中では犬や猫などの動物というのは「家族」ではなく、あくまでも「畜生(仏教的な意味は含まない)」的存在だったのかもしれない。

  1. 親はなぜ1回目に8匹産んだ時点でハッチに避妊手術をしなかったのかという疑問
  2. ハッチに避妊手術を受けさせることもまた倫理的に考えると正しいことなのかという疑問

この2点については、親にも「なんでハッチ手術させへんかったん?」みたいなのも聞いていないし、私の中でも未だに答えが出ていないのだが、とにかくあの保健所に連れていった犬のことを思い出すと、あの頃よりも今の方が悲しくなるし、親がやったこととはいえ、同じ家族として最低なことをしたと思っている。

天国と地獄が本当にあるのだとしたら、おそらく私は地獄に落ちるだろう。

死んだらすぐに埋め、決してお金では買わない

その後、我が家ではハッチ、ゴン、蘭丸、シマ(猫)の4匹体制が、私が高1になるまで続き、シマ→ハッチ→蘭丸→ゴンの順に死んでいったと思う。

蘭丸については私が大学生になる頃まで生きていて、私が夏休みに大阪から帰ってきて、蘭丸を散歩に連れて行った次の日に死んだ。なお、蘭丸が死ぬ前日の散歩の時、蘭丸は散歩の折り返し地点くらいで座り込んでしまって、大型犬レベルのサイズの犬だったので脇をかかえて立ち上がらせてなんとか帰ってきたのだが、あの散歩のせいで蘭丸が死んでしまったのではないかと、そのことについても私は未だに後悔している。

話がまた逸れてしまったが、そうして犬や猫たちが死ぬ度に、父は家のまわりの空いている場所に穴を掘り、毎回その日のうちというか、死んだと確認がとれて死後硬直した数時間以内には一刻も早くといった感じで土に動物たちを埋めていた。

一応その時家に住んでいた家族が別れを告げてから埋めていたとは思うが、言っても死んで2~3時間後くらいには毎回土に埋めていたので、私はそこでも人間と動物との隔たりを感じずにはいられなかった。

そして、蘭丸はゴンより後に生まれたのにゴンより先に死んだわけだが、蘭丸が死んでから暫くしてうちの両親はゴンがまだ生きているうちにまた犬を飼っていた。もうその頃には私も実家にはいなかったので経緯はよく知らないが、その犬もまたペットショップの前で無料で引き取ってくださいみたいにされていて、可愛かったのでもらってきたみたいなことを母が言っていた。名前は「くるり」と言い、それは私がくるり(バンド)が好きだったのと、尻尾がくるくるだったとかそんな由来だったと思う。

あと、シマが死んだあとも「一休(わりとすぐに行方不明になった)」という猫や「ハル(めちゃくちゃ狂暴で家も私の腕もボロボロになった)」という猫を飼っていたが、いずれもペットショップの前とかから無料で引き取ってきたやつで、くるりの死後から現在も生存している「フクちゃん」という猫も無料で引き取ってきたやつのようだ。

理由は単純にお金がないからだけだとは思うが、うちの両親は動物についてはお金を出して買うことはしない主義を貫いているようだった。

家族なら選べない

結局のところ何が言いたいのか自分でもよくわからなくなってきてしまったが、私が犬や猫をペットショップでお金を出して飼う(買う)人の考え方や、ペットのことを「家族」として人間と同等に扱う人の考え方がよく理解できないのは、おそらく、

  • 仔犬たちを保健所に連れて行ったことへの懺悔の念
  • 父の死んだらすぐに埋めるという習慣
  • お金を出してペットを飼わないという親の行動

この3つが大きく影響していると思う。

そして、私は犬も猫も好きなので、ペットショップで売っている犬猫を見てもやっぱりかわいいとは思うのだが、その反面、正直なところペットショップ、特に犬猫コーナーについてはこの世からなくなってしまえばいいのにと思っている。

お金を出して飼う(買う)こともその人の勝手だし、保健所に連れていかれるよりはマシだが、でも、こういうサイトを見てもらってもわかるように、里親を待っている動物は全国にめちゃくちゃいるのだ。特に犬猫なんて圧倒的な数である。

www.pet-home.jp

ペットを家族のように想うことだって別にその人の勝手だとは思うし、その人にはその人なりの考え方があるのもわかる。

でも、そのペットがお金を出して飼った(買った)ものだとしたならば、どうして「家族」だなんて言えるのだろうか。なんかおかしくないだろうか。

人間の赤ちゃんは、生まれてくるまでその子がどんな子かなんてほとんどわからないし、もちろん今の社会では、(裏では色々やってるかもしれないけど)選んだりなんてできない。ましてやお金を出して人間を売買することは犯罪だ。

だけど、里親制度なら新しい家族として子どもを迎え入れるわけで、それは犯罪ではないし、むしろとても素晴らしいことだ。

この差ってなんなんだろう?

やっぱり家族とかいいながら、お金を出して選んでいる時点で「ペット」とか「畜生(仏教的な意味は含まない)」って感じに心の底の底では区別しているのではないだろうか。違うのだろうか。

私は動物愛護団体の回し者でもなければ、エシカル・ヴィーガンとかいう動物可哀想的な思想も全くない。肉は大好きだし、野菜だけしか出ない店とか逆に絶対に行かないタイプだ。

だけど、なぜかいつまでたっても里親を待つ動物がいるのにあえてお金を出して同じ動物を買うことだけは理解できない。

世の中には色々な考え方があって、色々な視点があるので、お金を出して買った人の意見を聞ける機会があるのならば聞いてみたい。

それは敵意とかじゃなくて、純粋に自分の思考回路と結びつかないから、物事の捉え方のひとつとして知りたいのだ。

そうしたら、もしかしたら私が見えていないだけの何か新しい視点を持つことができるかもしれない。

(なんか…またモヤっとした感じで終わってしまってすみません)