前回の話↓
父にあげた絵
バブル崩壊は1991年頃からと言われているので、おそらく私は小学4年生くらいだったのだろう。
日本経済のことなんて何も知らない私たち子どもは、放課後の教室で机をくっつけて「お立ち台」を作り、扇子を持つふりをしながら踊り「ジュリアナごっこ」をしていた。
そんなある日の夜のことだった。
兄と姉と私、そして母は父に呼ばれ、父のかつての仕事場であった「応接間」、その後リビングとなったピアノのある部屋の、こたつ机の周りに座らされた。
それはいわゆる「家族会議」みたいな雰囲気だった。それまで一度たりとも我が家ではそんな時間を持ったことはなく、そしてその「家族会議」のようなものはあの夜以来一度も開かれてはいない。
そこで父から聞かされた話は「何年後かに新しい家を建てるから、それまで今の事務所を一旦壊して、今の庭があるあたりに事務所の材料を使って仮住まいを建てて、そこで暮らすことになる」というものだった。理由などは何も聞かされなかった。ただ仮住まいに住むという話、それだけだった。
あの時、同じ場所にいた兄や姉がどう受け止めていたのかはわからない。私と兄は6つ、姉とは4つ歳が離れているので、ひょっとしたら兄くらいは何かに気づいていたかもしれない。
ただ私はその時、何の疑いも持っていなかった。ただ父の言葉を純粋に信じていた。
「新しい家が建つから、暫く小さな家に住むんだ」ただそれだけしか頭になかった。
そしてちょうどその頃、母がどこかの家を見ながら「総二階の家って広いしええなあ」と言っていたことを記憶していた私は、「お父さん、私、次はこんな家がええ!」と言って、父に新しい家の絵を描いて渡した。そこに描いたのは、もちろん母が望んでいた総二階の家だ。これまでの家とも、事務所とも全く違う、洋風の家。
父はその時「そうやな!」みたいなことを言って当たり前のようにその絵を受け取っていたが、父はあの時一体どんな気持ちだったのだろうか。本気でその「仮住まい」の家を文字通り仮住まいにしようと思っていたのか、それとももうあの時点でそんな気はなかったのだろうか。
それからしばらくの間、まだ解体する前の事務所の父の机の上に、私の描いた総二階の家の絵は置かれていた。あの絵は一体どこへ行ってしまったのだろう。
おかしな仮住まい
今思えば、まだ建てて数年しかたっていない事務所を一旦壊し、その敷地のすぐそばに、その事務所の使える建材を使って家を建て直すなんておかしな話だった。
でもそのおかしな家が仮住まいだと信じて疑わなかった私は、「好きなの選んでええで」と父から渡された壁紙やブラインドのサンプルを姉とああだこうだ言って見ながら、仮住まいへの引越しを少し楽しみにすらしていた。
それから暫くして、家を囲むように生えていた松の木やビワの木、キンカンの木など、何本もの木々が切り倒されていった。私の家の庭や庭の隣にあった小さな菜園も更地になった。ファミコンをしていた事務所は解体され、その場所も更地になった。
そういえば、その頃にはもうかつて家の前に広がっていた田畑は区画整理の工事がされ、土が盛られ踏み固められただけだったあぜ道たちは、車が通れる道路に姿を変えていた。区画整理を予定して事務所の玄関を変な位置に作っていたのに、結局それは何の意味もなさなかった。
やがて、ちょうどビワの木があったあたりから、家の敷地の隅っこにぴったりとくっつくように「仮住まい」の目印となる木の杭が打たれ、杭と杭を繋ぐようにして黄色い糸が張られた。
そしてその黄色い糸が張られた日の夕方「ここがYちゃん(私)とTちゃん(姉)の部屋になるところで、ここがお兄ちゃんの部屋で…」と、父から説明を受けた。その説明を受けながら私は「こんなに狭いところに住むのか」と内心驚いていた。でもおそらく仮住まいだと信じきっていたから、黙っていたのだと思う。「暫く暮らすだけだから、その間だけなら多少小さい家でも結構面白いかも」そんなふうに思っていたのだろう。
引越しのことはよく覚えていないが、とにかく家が小さくなるので、色々なものを処分したことは覚えている。当時の田舎は敷地内で勝手にものを燃やすことなんて当たり前だったので、隣の空き地で色々ないらなくなったものを燃やしていた。
完成した仮住まいは、父から説明を受けた時よりは広く感じたが、普通の平屋の家ではなかった。そりゃそうだ、使える建具は全てファミコンをしていたあの事務所のものを使っているのだから。
玄関の長方形のドアノブには「PUSH」と書かれていて、まるで個人経営の喫茶店の入り口みたいだし、窓の種類も部屋によってバラバラ。父は「床下収納もあるで」と言っていたが、それはただ床をくり抜いただけで、蓋をとればそこは家の基礎部分と繋がっていた。
奥には私と姉の部屋である8畳の洋室と、父と母の寝室となる8畳の和室があり、玄関横にあたる手前には6畳の兄の洋室があった。そしてその空間を繋ぐように12畳ほどのリビング兼キッチンがあったが、当然、家族5人が座れるダイニングテーブルなど置けやしなかった。兄の部屋から狭い廊下を挟んだ反対側にトイレがあり、トイレは普通の広さだったが、隣のユニットバスとの間に作られた脱衣所が致命的に狭かった。洗面台の幅しかなく、洗濯機も置けなかった。私はその脱衣所が嫌で仕方なかった。洗濯機は家の外に置かれた。
プレハブ小屋の思い出
私がかつてファミコンをしていた事務所は解体され、仮住まいへと姿を変えた。
では父の仕事場である事務所はどうなったかというと、三角屋根の4畳半ほどしかないプレハブ小屋になり、仮住まいのすぐ目の前に建てられた。
たしか「スーパーハウス」とか言う名前の赤い屋根のログハウスのような雰囲気の小屋で、三角屋根の部分は半分ほどがロフトになっており、細い木でできたはしごをのぼってそのロフト部分に上がれるようになっていた。
平屋建ての家のような事務所から、トイレも手洗い場もない四畳半ほどのプレハブ小屋の事務所になったわけなので、事務所の中は人がすれ違えないほどギュウギュウだった。何台もあった事務机は2台だけになり、壁に並んでいた大きなキャビネットも1つだけになった。あとはコピー機となんとか対面で座れる応接セットがあるだけ。本当に狭かった。
でも私はそのプレハブ小屋が結構気に入っていた。厳密にはプレハブ小屋のロフトが好きだった。なぜならそのロフトであれば大阪のラジオ局であるFM802が聴けたからだ。平屋の仮住まいではFM802が聴けなかったのだが、位置の問題からか、なぜかプレハブ小屋のロフトに置いたラジカセからはFM802を聴くことができたのだ。
プレハブ小屋にはファックスもあったので、私は父が事務所にいない休日や、平日の夜にプレハブ小屋のロフトに行ってはFM802を聴き、ラジオ局によくリクエストを送ったりしていた。
一番覚えているのは、中学生の時FM802の「ミュージックガンボ」という番組で、当時好きだっMr.Childrenの桜井さんがDJの日があって、その日に私のリクエストした曲をかけてもらえたことだ。たしか「Over」という曲だったと思う。とても嬉しかった。「ミュージックガンボ」では、他にも今でも大好きなスピッツの草野マサムネもDJをやっていて、当時は本当に一人でラジオを聴くその時間が好きだった。
今思えば能天気な話ではあるが、その頃から音楽は私の心の支えになってくれていたのだと思う。
(つづく)