エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

大きな何かの木の下で

気が付けば1ヵ月以上ブログを書いていなかった。

子どもの夏休みが始まり、8月のはじめに初めてコロナに罹って私から別居中の夫を含め子どもにまでうつり、一家全滅したりして、その間の仕事の穴埋めやらに奔走していたら今日になっていた。

コロナに関しても書こうと思えば色々書けるのだが、すでに罹っている人がたくさんいるのであえて長々とは書かないが、一言でいうと喉ならびに耳の奥の痛みが尋常じゃなかった。これまで大きめの手術を2回と出産2回、足にヒビが入るのを1回やっているが、これらに並ぶレベルの強烈な痛みが4日くらい続いた。

本当に唾をのみ込むだけで靴を洗うタワシで喉の奥と耳の奥をゴシゴシされるような痛みが走って、初めて喉が痛すぎて泣いた。そんなわけで、あの激痛のことを思い出せば、多少嫌なことがあっても乗り越えられそうなくらいメンタルが鍛えられた。

安定している

メンタルが鍛えられたというのは、コロナのせいだけではないと思う。今日も例のごとくいつもの心理士さんに精神分析的心理療法を受けに行ってきたのだが(といっても自由に話すだけ)、私が心理士さんに話したのは、最近自分の精神が安定傾向にあるように思う、ということだった。

コロナのときも、その後仕事がたまりにたまってヤバい状態になったときも、そのほかのときも、なんだか何か困るようなことがあっても「まぁ結局どうにかなる」と思うようになり、最近自分のこころが安定しているように感じると、私は心理士さんに話した。

それはまるで蔦の葉っぱのように、少しずつ私を覆ってきているように思う。今年の3月、思いっきり鬱状態になったときに心理士さんに「意外とどうにかなるものですよ」と声をかけてもらったり、ライターの先輩に「納期が遅れても誰も死にませんよ」といわれたことなどが蔦の葉っぱのように私をどんどん覆いつくしてきているのだ。

そのおかげで、以前は何かにつけて良くない方向の想像(あるいは妄想)をしては緊張感にさいなまれていた私だが、最近はそのような想像をすることも減り、心なしか緊張感もおさまっていて、安定しているように思う。

今日だって本当は仕事もやらないといけないし、資格取得に向けての勉強もやらないといけないんだけど、なんとなく気が乗らないので、「まぁどうにかなるっしょ」「とりあえず明日いくらかやればいいっしょ」みたいな感じになっている。

苗木が育つ

どうしてこうなったのか、それは前述の心理士さんの言葉なども関係しているが、より深く今の状態に至ったことに思いを巡らせてみると、おそらく私は数年前に苗木を植えていて、その苗木が今育ってきているのだと思う。

どういうことかというと、短期的、あるいは限定的な「何か」によって今の状態に至ったというわけではなく、私は数年前、夫と別居する前から、友達や先輩に夫との関係に悩んでいることを話したり、アドバイスを受けて心理士さんのもとに通うにようになり、さらに心療内科に行って薬に頼るようになったりして、どれが苗木だったのかはわからないが、自分が寄りかかれるようになるための木を知らないうちに育てていたのではないだろうかと思うのだ。

そのへんに生えている木を思い出してほしい。できれば公園とかに生えている大きめの木がいいかもしれない。木は某中古車販売会社のように枯葉剤を撒かれたら枯れてしまうかもしれないが、そのようなことがない限りは、少しずつ少しずつ時間をかけて育つ。私のこころの中にある苗木も多分そうやって少しずつ少しずつ時間をかけて育ってきたのではないだろうか。

できることといえば、まだ折れそうに弱いうちは添え木をしたり、日照りに気を付けたり…そんなところだろうか。そんなふうに時折木が折れてしまわないようにしながら、時間をかけて自分のこころの中にある苗木を見守ってきた結果、気づけば自分の背丈を越し、さらに立ってるのがしんどいときは少しもたれられるくらいの太さになり、雨宿りができるくらいに枝葉がつき、今は自分ではない誰かをもう一人くらいは雨宿りに入れてあげられるくらいに育ってきたように思う。

まだ猛烈な強さの台風に耐えられるほど丈夫ではないけれど、これまでやってきたことと同じように、これからも自分のこころの中にある木を見守っていけば、自然と大きな木に育っていくのではないだろうか。

ほかの木に近づかない

そんな話を心理士さんにしていたら、以前の深海魚の時↓のように、また心理士さんに「私やこの場所はどんな存在ですか?」といったことを聞かれた。

私は、心理士さんや心理士さんのいるカウンセリングオフィスを「木の説明とかが書かれている札」と答えた。その札がないと苗木の時に雑草と間違えて抜かれてしまったり、その木が成長すれば立派な木になることがわからない、そんな存在だと答えた。

あくまでも自分の一部ではなく、そこには明確な線引きがあると。その線引きがあることによって過剰に心理士さんに感情移入したりせず、客観的な視点が持てているのだろう、といったことを伝えた。

心理士さんはその答えに納得したような反応を見せた上で、でもその線引きは時として「ほかの木にもたれかかることのできない私」を作っているといったことを言った。私は私に優しくしてくれた人の優しさを、きちんと受け止めて、何らかの形で返すことがうまくできないと。

本当は自分の近くにあるもっと丈夫そうな木にもたれかかって休んだっていいのに、今は自分の木でどうにか雨風をしのごうとしているのではないだろうか。

そんな感じで、今日は安定している(しはじめている)ことや心持ちに変化が現れていることを確認した上で、ほかの木に近づかない、近づけないという新たな問題・課題を知ることとなった。

 

で、何が言いたいのかというか、別に主張したいこともないのだが、とにかく最近はそんな感じである。

もしこころに寄りかかれる木がない人も、もしかしたら今腰の高さくらいまで苗木が育っているかもしれないし、私みたいに「目印の札」も見つからないという人は、とにかく何か今とは違うことを始めてみたり、考えてみると良いのかもしれない。

大きな嵐が来て根こそぎ持ってかれないように、人々のこころの中に木が育っていけばいいなと思う今日この頃である。

(本当に何が言いたいのかよくわからなくてごめんなさい)