エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

震災のトラウマを引きずり続ける私の生活【後編】

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関節的な被災であり「被災者」ではないものの、阪神淡路大震災と東日本大震災の両方の揺れを経験した私。

昨日の記事で書くのを忘れていましたが、阪神淡路大震災の時は、中学校に英語の先生として来ていたイギリス人だかアメリカ人だかの女の先生が、地震のことでノイローゼみたいになって、震災以降学校に来なくなり、帰国してしまったということもありました。

当時は「人って地震なんかでそんなふうになるんや…」と少し大袈裟なくらいに捉えていた中学生の私でしたが、ノイローゼとまではいかなくても、大人になった今は結構地震が日々の生活に影響を与えていることを思い知らされています。

ということで、昨日のお話の続きです。

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東日本大震災の直後

普段から買い物は土日に夫(仮)と行くことが多く、現在もではあるが、買い物に行くと一度に大量に買い込んで暫く行かないという生活パターンを送る私にとって、スーパーやコンビ二の物が根こそぎなくなっても、それほど大きな痛手にはならなかった。

しかも当時は子どももまだ生まれていなかったので、夫(仮)と私の食事くらいどうとでもなった。

しかし、3月12日の午後、原発が爆発したというニュースが入ってきて、私は再び恐怖に襲われることとなる。

元々事件や事故のニュースやドキュメントを見るのが好きだった私は、東海村の臨界事故のことなどを少し知っていたので、「原子力=放射能=得体のしれないヤバいやつ」という認識があった。

余震が続き、常に身体が揺れているような感覚の中、原発が爆発している映像を見た私は「これってヤバいんじゃないの…?」「逃げなくて大丈夫なの?」という不安に襲われた。テレビで枝野さんが度々会見をしていて、その度に食い入るように会見を見ていたことを思い出す。

細かな経過は忘れたが、その時夫(仮)はもう月曜日から会社に行くと言っていて、結果的には被災地に行ける状況ではないことが後々になってわかってきたため行くことはなかったのだが、なんなら「月曜日から被災地にある拠点に応援に行くかも…」などと言っていた。

私としては「余震もまだあるし、ましてや原発事故も起こっているのに、被災地方面に行くなんて正気なの?そこまでしないと駄目なの?」という気分で、夫(仮)の言動がにわかに信じがたいレベルにビビっていた。

そして、私は悩みに悩んだ結果、夫に「原発事故が今後どうなるかまだわからないし、子どもも近いうちに欲しいと思ってるし、今放射能を浴びて後でなんか影響が出たら怖いから一旦ちょっとだけ実家に帰らせてほしい」と話し、3月14日あたりから1週間ほどだっただろうか、兵庫の実家に一旦帰った。

会社については、前回書いたとおりいてもいなくてもいいような超暇な職場だったため「地震のことで精神的に落ち着かないので休みます」みたいなことを言ってすんなり有給をとって休んだ。新幹線で西日本へと近づくにつれてかなり安堵したのを覚えている。

結局原発の状況はその間も特に大きく変わったわけではなかったが、夫(仮)を残し、仕事を休んでまでずっと実家にいるわけにも行かなかったので、色々と食料などを買って宅急便で横浜の自宅に荷物を送り、横浜に戻り、次の週からは職場復帰をしたのだった。

東京が怖い。密集地が怖い

3月11日、東京の街を彷徨っていた時に感じたビル群の中にいる恐怖感、緊急地震速報の音の恐怖感、「この空気は大丈夫なのか?」という目に見えない放射能への恐怖感、連日流れるニュースからの恐怖感…。

特定の食品やペットボトルの水不足、放射能対策のマスク不足などはあったが、東京の街自体は結局のところ大きく揺れただけで被災地のような被害はなかったため、自分が思っている以上にすぐにいつもの様子を取り戻し始めていた。計画停電も結局私の生活圏ではなかったと思う。

ただ、私は東京の街に行くこと、横浜市内であっても自宅を含めた住宅密集地などの建物が多い場所、道の狭い場所などに行くのがとても怖くなってしまった。

東日本大震災が起こる前は、今と同じように「首都直下型地震はいつ起きてもおかしくない」と度々言われていた。だから、正直なところ私は3月11日のあの大きな2度の揺れがおさまり、震源を知るまでは「首都直下型地震が起こったけど、助かったんだ」と若干安堵していた。しかし、それは結果として首都直下型地震ではなかった。

ということは、やはり自分の住む地域で地震が起こる可能性は依然として高い。しかも首都直下型地震なら、東日本大震災の震度5強の揺れよりも、もっと強い揺れだ。阪神淡路大震災のような逃げる隙もない一瞬の強い揺れだろう。

「こんなところにいたら、確実に死ぬ」

もう私の中の答えはそれしかなかった。

建物が崩れてきて死ぬ。人に押しつぶされて死ぬ。火事になって逃げ場がなくなって死ぬ…こんなところにいて地震がきたら、どう考えても生き残れない。

とはいえ、そんなことを考えていても、被災地ではない関東の街は3月11日以前の状況には戻れないにしても、震災前の日常を取り戻そうとしていた。そして私も常に恐怖心を抱きながら日々を過ごしていた。

その年の冬前に息子の妊娠と卵巣嚢腫が発覚し、結局手術もあったため翌年の1月末頃で会社は辞めたのだが、それまでの間、私は毎日恐怖心の中で通勤をしていた。東京から横浜へ帰るには多摩川を越えなければならないのだが、毎日仕事帰り、多摩川を越えると少し安心していたのを思い出す。

そして息子を妊娠する前、夫(仮)と海外旅行に行ったのだが、その時も、飛行機に乗った瞬間に「これで数日は地震のことを考えなくてもいい」と安堵したのを覚えている。旅行が楽しみというよりは、地震の恐怖心から逃れられるという安心感の方が強かった。

あれから10年…トラウマをひきずり続ける私の生活

その後、私は2012年の2月に卵巣嚢腫の摘出手術を受け、8月には息子を出産したわけだが、手術中も出産の時も「今この状況で地震が来たらどうしよう」と考えていた。娘の出産時も、昨年の娘の心臓の手術中も、ずっと同じことを考えていた。

東日本大震災から今年で10年となるが、私は未だに毎日のように「今この状況で地震が来たらどうしよう」と考えている。子どもが学校に行っている間に電車に乗って違う街に行くだけでも少し不安になるし、東京に遊びに行かなければならない(なるべく行くことを避けている)時も、多摩川を越えて戻ってくるまでは不安になる。

旅行に行く時も、海から近いところに泊まる場合は、そのホテルがどれくらい海から近くて、建物が何階建てで、海抜何mのところにあるのか、また、海から近い場合はすぐに逃げられる場所はあるのかどうかまで調べるようになった。

住む場所にもトラウマの影

また、「密集地はヤバい。どう考えても死ぬ」という私の例のトラウマは、住む場所にも未だに影響を与えている。

息子が生まれて3ヶ月ほどで、私たち一家は同じ横浜市内で、それほど遠い場所ではない別の場所に引っ越した。理由は色々あったが、私の中では、当時住んでいた場所が駅徒歩1分くらいの住宅や店舗の密集する場所だったことが大きかった。

引越し先は道路も広く、周辺には公園も多く、いざという時の逃げ道もたくさんあった。その後、マンションを購入したが、そこも築年数は古いものの、低層マンションで、大きな公園が近く、少し行けば大きな道路もあり、いざという時の逃げ道もたくさんある場所だった。そして夫(仮)と別居することになり、新たに買い直した今のマンションも、築年数は古いものの低層マンションで、近くに公園があり、逃げ道もたくさんある場所だ。

おそらく今後引っ越すことになったとしても、「周辺に広い場所があるか」「逃げ道はいくつもあるか」「建物は頑丈そうか」といったことを私は気にし続けるだろう。

トラウマの影は仕事にも

私は今自宅でフリーのライターの仕事をしているが、実はこの仕事をしている理由のひとつにも震災のことが影響している。それは、もし大地震が起こった時に、自宅にいればすぐに子どもを迎えに行くことができるからだ。

たしか息子が幼稚園に入園する前の説明会での話だったと思うが、その時、教頭先生が「まだ私もあの頃のことは全部話せないんですが…」と声を詰まらせながら語っていた話だ。

私の記憶が確かならば、東日本大震災の日、次々と園児の保護者がお迎えに来て帰っていく中で、一人だけいつまで経っても保護者がお迎えに来れなかった男の子がいたそうだ。おそらくその保護者(母親。父親についてはよくわからない)も帰宅困難者だったのだろう。

当然先生は帰宅するわけにもいかず、その子を励ましながら余震の続く中で一夜を過ごしたそうだが、朝になって遠くの方から猛ダッシュで園に向かってやってくる人の足音が聞えたそうで、足音だけですぐその子はお母さんだと気づいたそうだ。その時の男の子の様子や涙しながら謝るお母さんの様子などを、先生は思い出して泣きながら話していた。

それは言ってみれば単なる震災時のエピソードではあるのだが、当時仕事をしていなかった私はその話を聞いて、「絶対に仕事をするなら近所にしよう」と心に決めたのだった。そして実際、今私は近すぎるほど子どもの近くで仕事をしている。

もし今後何らかの形で別の仕事に就くことになっても、私はおそらく子どもたちの近くで働くことを選ぶだろう。

このトラウマは抜け出すべきものなのか

当時の放射能汚染への心配など、かなり端折って書いた部分はあるが、被災者でもないにも関わらず、私は未だに震災時のトラウマから抜け出せずにいる。

日常生活に支障をきたすほどのことでもないので、このことについてはカウンセラーさんにも心療内科のドクターにも話したことはないし、ある意味防災意識と捉えれば悪いトラウマでもないのかもしれないとさえ思っている。

そして、私レベルの体験でここまで引きずっているのだから、実際に被災した方たちの心の傷は計り知れないものなのだろう。

私たちは、特にこの国に生きている以上は、震災に遭う可能性から逃れることはできないわけだが、私のほかにも、同じように被災者ではないものの、トラウマを引きずっている人はどれくらいいるのだろうかと考えたりもする。

あまり人に言うと「気にしすぎ」と思われてしまいそうなので言えないのだが、こんなふうに思いながら私は日々生きている。

(あまり締まりのない話になりましたが…以上です。前編から読んでくださっていた方、ありがとうございます)