エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

苦手な人との付き合い方

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いつものことではあるが、今日は日曜日で子どもは家にいるが私は仕事だ。

最近、特に今やっている仕事はどうも苦手意識があるというか、書く前からだるくて、書いている途中もだるくて結局全然片付かない。本当は1日で終わらせるつもりが昨日も2日かかってしまった。そしてまた今日も1日で終わらせなければならない(が、多分明日もやる)。やめて他の仕事を増やそうかとも思うが、担当者は良い人だし、仕事だしな…、と思って毎月受けている。

ということでやらないといけないことがあるんだけどウォーミングアップ的にこの記事を書いている。長くならないように書きたいがどうだろうか。

苦手な人

今はほとんど人との付き合いがない…というか、あるけど深入りしない生活を送っている私だが、やはりそれでも苦手な人というのは存在する。リアルでの付き合いが少なくネット上、SNS上の付き合いであってもやはり「苦手だな」と思う人がいる。苦手な人の特徴に一貫性はないが、そういう人はとにかくやりとりをしていて「合わないな」と感じる何かがある。

人によっては「苦手だな」と思ったらその時点でバスッと関係を絶ち切ってしまう人もいると思う。が、私はわりとそれができない(ほうだと思っている)。

おそらくもう顔を合わせることもないだろうし、おそらくこのブログも読んでないだろうし、仮に今後顔を合わせることがあったとしてももう別にいいというか、私の中で時効だと思うので書いてしまうが、私には長年すごく苦手な人がいた。

しかし、その人は子ども関係でつながりのある人だったので、嫌でも付き合いを続けるしかなかった。正直その人と知り合ってからわりと初期段階で「この人無理」と思っていたが、子どもが絡んでいることがあり、結果として何年も付き合うことになってしまった。きっと周りの人から見たら私とその人は仲が良いと思われていたと思う。そのせいで「江戸さんてあの人と友達なんだ、じゃあ私とは合わないかも」みたいな感じで、本来友達になりたかった人とも友達になれなかったのではないかとすら思っている。なお、その人以外にも同じような人が何人かいる。

絶ち切れない

その人のどんなところが苦手だったのかを細かく書くと特定されそうな気もするので一応書かないでおくが、まぁ結局のところあらゆる部分が苦手だった。とにかく合わない。好みから何から合わなかった。

なので、私は自分からその人に連絡をとることはなかったし、その人からの誘いが5回あったとしたら4回は断っていた。その人が2人きりで会おうとしてきたら絶対に他の誰かを誘っていた。なぜなら2人きりで会ってまで話すことなんてないからだ。

でも、私はその人に対して「お前のことが嫌い」ということは言えなかったし、その人に対してはあたかも友達かのようにふるまっていた。そのような態度をとる最大の理由は、まず子どものつながりであるため、その人ともめると他にも影響が及ぶから。そして理由はもうひとつあった。それは、「苦手だけど良いところもあるはずだよね」的な、見捨ててはいけない、という気持ちがどこかにあったからだ。

「こいつなんなの」と思うような発言をされて暫く放っておいても、また暫くしてその人から連絡があったりすると「慕ってくれてるんだから無下に扱うのも悪いよね…」と思ったり、「同じように私のこと苦手だけど付き合ってくれてる人がいるのかも」的なことを考えてしまい、結局関係を絶ち切れずに付き合いを続けてしまうのである。

見切りをつけるタイミング

正直に書くが、その人との関係に限らず、そういったことは実はすごくよくある。どんなに気の合う人であっても、完璧な人なんていない(はず)と思っているので、苦手だな、嫌だな、と思うことはあって当たり前だと思う。そして、前述のとおり自分だって他の人からしたら「江戸さんの◯◯はいいけど、ここは苦手」と思われているんだろうなとも思う。まぁどこが苦手とか怖くて聞けないけれども。

ただ、問題なのは、苦手だな、嫌だな、と思うのをどこまで受け入れればいいのか、ということである。「友達なら正直に本人に伝えたら?」と思う人もいるかもしれない。そのとおりっちゃそのとおりである。でも、伝えるのって「直してほしい」と思うからであって、「お互いさま」というか、それを受け入れるというのもまた一つの方法なのかな、とも思うのだ(言ってる意味わかんなかったらごめんなさい)。

苦手だな、と思いつつ「まぁそんなところもあるよね」とスルーするものの、またその苦手な部分が顔を出すと「やっぱ苦手だわ」と思う…その繰り返し。どこで見切りをつけたらいいのかタイミングがわからなくなるのだ。

近いほど絶ち切れている

ただ、例外もある。それは身近な人であるほどかえって絶ち切れているのだ。

例えば父。またいつか「あぶくの家シリーズ」ででもいきさつを書ければいいと思うが(予定は未定)、私は実の父ともう7年くらい会っていないし会話もしていない。いわゆる絶縁状態である。正直葬式に行くのかどうかもわからない。が、別にそれで困っていることなど何もなく、むしろ心の平穏が保たれている。しいて言うならば子どもたちのおじいちゃんが一人いない状態になっていることだろうか。でも父と自分の子どもを会わせても多分良いことなんてほとんどなさそうな気がするのでこれでいいと思っている。

そしてもう一人は夫(仮)。もう良かったころの思い出なんて何も思い出せないくらいだが(思い出したくもないのかもしれないが)、結婚したくらいの相手なのに、現在別居している。しかもこれは一時的なものではなく、離婚を前提としたものである。

本来離婚をしたかったものの諸事情があり別居にとどまっている状態ではあるが、ここに至るまでは非常に辛かった。なにが辛かったって「嫌いなのに夫婦という形で一緒に暮らすこと」である。日々の生活態度から滲み出ていたとは思うが「お前が嫌い」と相手にはっきり意思表示したくてもできないというのがすごく辛かった。でも限界を突破し「離婚したい」「別居しよう」という局面を迎えてからはすごく楽になった。

そして、変な関係性だと思われるかもしれないが、現在は離婚を前提とした別居という形で「お前が嫌い」という明確な意思表示を常にしつつ、子育てについては協力してやっている状態で、夫(仮)とはほどよい(かどうかはわからないが)関係性が保てている(つもりでいる)。

根深い問題

近しい人ほど絶ち切れているのは、限界突破できる関係性になるまで近づけたからなのだろうか。今現在「苦手だな」と思いつつも付き合いを続けている人は、そこまでの関係性に至っていないから中途半端な状況が続いているのだろうか。

また、どうして近しい人に対しては「苦手なところもあるけど良いところもあるよね」「お互いさま」という考えができないのか…。なんとなくそれは近くなりすぎて「境界線」が曖昧になってしまったからだろうと思ってはいるが…。このあたりの私の人との関わり方や生き方の問題は定期的に通っているカウンセリングで今後紐解いていく問題だろうと思う。おそらく私の生い立ちがかなり影響しているだろう。

…と、ここまで書いてもう3000文字くらいになってしまった。これくらい仕事も捗るといいのに…。結局結論が出るわけでもなく、問題提起のような記事になってしまった。

万が一タイトルだけをみて「苦手な人との付き合い方のヒントがわかるのでは」と思って読んでくださった人がいたとしたら本当に申し訳ない。

この話の続きは、タイトルは変わるかもしれないが、また別の記事で書きたいと思う。

さて、仕事しよう。やばいよやばいよ~。