エド&リーのブログ

未亡人に憧れるゴーストライター。深海魚のような仲間を探しています。結論の出ない話多めです。

コーヒーレディーはマルドロールを駆け抜けて⑩

前回の話↓

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相反

芸大に入学してまだ数ヶ月。それでも私は、芸術とは、表現とは、常に自由なものであると考えていた。また、それらをつくる人の心も自由であるべきだと。

例えばその人が犯罪者であっても、その人を愛する人がいたり、その人が誰かを愛することはあって良いことであると思っていたし、好きになった人が男でも女でも、その人のことを好きになったならそれは事実であり、何ら問題ないことだと思っていた。

芸術の道を歩むものとして、私の心、思想は自由なものであり、解放されていると思っていた。

しかし、シダから告げられた事実を前に、私は自分の心が全く自由でないことに気づいた。シダから事実を告げられるまで、何でも話せる大切な人だと思っていたのに、真実を告げられたその瞬間から、私の中に広がっていた何もない大地に、何本もの鉄筋が刺さったような感覚になった。

私の心は全然自由じゃなかった。私の心に広がっていたはずの何もない大地には、実は無数の道路があって、自由に歩くことなんてできない、すでに区画整理がされた狭い土地だったことを思い知らされた。

シダとの関係をどうするか、すぐに答えは出せなかった。2~3週間くらいは悩んだと思う。

私が信心深い仏教徒であったならともかく、そうでもない。相手が信仰する宗教がなんとなく気に食わない、ただそれだけの理由で別れを選んでよいものなのか。本当にシダのことが好きなのであれば、自分が入信するかは別として、シダの考えも受け入れるべきではないのかと。

しかし、私にはできなかった。自分を正当化するのであれば、自由であるべき芸術に宗教は不要だと判断したともいえる。宗教画や仏像といったものとはまた別の世界の話として。

また、シダが知り合ってから数ヶ月の間、信者であることを隠していたことも私に大きな不信感を与えた。自分がそれほど熱心に信仰する宗教なのであれば、なぜ最初からそのことを私に伝えないのか。

シダなりに、いきなりそんな話をすると私が去ってしまうと考えたのかもしれないが、私としては、いっそのこと堂々と最初に言って欲しかった。自分がそれほどにも信じてやまないものなのであれば、堂々と告げるべきであると。その結果として私たちの関係がどうなっていたかはわからないが、とにかく卑怯だと思った。

シダに別れ話を告げたとき「なんであかんの?」的なこととか「偏見を持たないでほしい」的なことを言われたが、私の決心が揺らぐことはなかった。

シダはいわゆる宗教2世というやつだった。幹部を務めるほどなのだから、まぁそうなんだろう。シダの両親もバリバリの信者だった。ただ、シダには私と同い年の弟がいたが、弟はそれほど信心深くないようで、それが家庭内の困りごとのように話していた。

安倍元総理の銃撃事件以来、宗教二世に関する問題が世間から注目されるようになってきたが、私はその20年以上前から、某政党のポスターを見たり、某新聞社のCMを見たりするたびにシダのことを思い出し、また、宗教二世について考えていた。

トラウマ

そんな出来事もありつつ、夏休みは終わり、後期となった。同じ学科の友達にシダとのことを話すと皆少し驚いてはいたが、「それはキツイ」という意見が大半だった。中にはシダの入っていたサークルなどから、シダが某宗教と繋がりがあることを疑っていたという子もいた。また、「あの子もそうだよ」といった話も聞いた。

シダは後期になっても普通に大学に来ていた。前期の終わりの方は大学に行っても私はほとんどシダといたので、しばらくの間、休み時間とか、誰といればいいのか私はわからなくなった。

幸い、そのあたりは自由な校風というか、ゆるい考えの人が多い環境だったので、シダと話すことや一緒に行動することは一切なくなったが、少しずつシダのいない友人関係は再び構築されていった。私にとっては、なんとなく新たに大学に入り直したような感覚だった。

なお、シダの一件があって以来、私は新しく知り合う人の宗教をすごく気にするようになってしまった。友達レベルであればそれほど気にすることはなかったものの、基本的に「何か隠している重大なバックグラウンドがあるのでは」といった目で人を見るようになった。何教とかそいういうことよりも、重大な事実を隠していないかを気にするようになってしまった。

その後、大学在学中に私は2人の男性と付き合うことになるのだが、どちらの彼氏にも結構早い段階で「ちょっと変なこと聞くけど、家の宗教って何?私は浄土真宗なんやけどさ……」みたいなことを尋ねていた記憶がある。もちろん、その後付き合った人に対しても同じ質問は必ずしていた。その質問が差別的であり異質な質問であるとわかっていても、聞かずにはいられなかった。

宗教については、今も基本的にやはり信教の自由であるとは思っているし、そう考えている人も多いだろう。ただ、実際、宗教の違いを目の前にした場合、苦悩する人は多いのではないかと思う。

これは宗教に限らず言えることだろう。遠目から受けるイメージと、実際に当事者になることには大きな差異があるものだ。